第2回 松本 末太郎 (まつもと すえたろう) [1892-1965]
《「藍染め」という伝統産業の機械化を成し遂げた、優れた発明家にして実業家》

第2回は、山陽染工 創業者 松本末太郎(まつもと すえたろう) [1892-1965]を取り上げました。
《 「藍染め」という伝統産業の機械化を成し遂げた、優れた発明家にして実業家 》
ぜひご一読ください。
1892(明治25)年、松本末太郎は、広島県川南村(現・福山市神辺町川南)に、農業と紺屋を営む父石蔵と母せきの子として生まれました。神辺南尋常小学校(現・福山市立神辺小学校)に入学、高等科を経て、1907(明治40)年、創立間もない盈進商業実務学校(現・盈進中学高等学校)に入学しました。
1910(明治43)年盈進商業卒業後、末太郎は鉱山開発や相場で大失敗を経験しますが、1919(大正8)年27歳の時、藍染めこそ生涯をかける天職だと一念発起。広島県工業試験場(現・広島県立東部工業技術センター)から丁寧な指導を受け、家業の藍染めの工業化に寝食を忘れて取り組みました。既に事業基盤を築いていた16歳年上の小林照旭(現・日東製網創業者)からの資金援助を受け、1923(大正12)年、無地染めの機械化に成功。翌年には特許申請中の藍抜染蒸熱還元装置が認可され、これを基礎技術として1925(大正14)年、備後藍絣株式会社を設立。社長に小林照旭、専務に末太郎が就任、従業員には妻のオクマをはじめ、末太郎の家族が総動員されました。小林社長は他の会社経営や公職にあるため、専務の末太郎が経営全般を担いました。末太郎の作った安価で良質な抜染による絣は飛ぶように売れ、続いて藍染で自由に図柄を描く方法を模索。化学薬品を使って部分的に色を抜いたりする正藍抜染法を発明しました。更に機械化に使用可能な抜染糊を開発、染絣に応用し染絣製造機を作り出しました。
1933(昭和8)年、満州から広幅生地の藍無地染めの大量注文を受けて、国内市場向け和服仕立用の小幅物から広幅物に転向、アフリカ・中南米・オーストラリア・インド・満州方面に輸出するようになりました。なかでも、高価なろうけつ染めのジャワ更紗の量産化に成功したことで、アフリカ向けの輸出が急増しました。太平洋戦争中は染色加工の軍需工場に指定され、軍服や防空テントの生地などの製造で工場はフル稼働、陸海軍に軍用機を献納しました。
1942(昭和17)年、末太郎の敬愛する儒学者・頼山陽に因んで山陽染工に社名変更。翌1943(昭和18)年、小林社長に代わり末太郎が社長に就任しました。終戦直前の福山空襲で工場は全て焼失しましたが、2年後には本格的に操業を再開。海外からの注文も相次ぎ、1950(昭和25)年には工場設備を2倍に拡充しました。山陽染工は終戦間もない時期から輸出産業の尖兵として大活躍、日本の戦後復興を牽引する企業の一つとなったのです。
1955(昭和30)年、63歳になった末太郎は、経営全般を婿養子の松本卓臣(福山市名誉市民・福山商工会議所名誉会頭、実兄は金尾馨元尾道商工会議所会頭)に、製造や技術面は娘婿の若林司郎に任せ、徐々に経営の第一線から退いていきました。晩年は、郷里神辺の儒学者・菅茶山や頼山陽に傾倒し、地元備後の文人墨客たちと盛んに交友。他にも囲碁・将棋や骨董を収集するなど、末太郎には多趣味な一面もありました。
写真提供 : 山陽染工
西町工場の染色機械
(写真提供 : 山陽染工)
[初出:中国ビジネス情報2024年6月1日号・びんご経済レポート2024年6月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2024年夏号]