第3回 渋谷 昇 (しぶや のぼる) [1904-1994]
《創業22年で大手運送会社を築き株式上場を果たした、卓越した事業家》

第3回は、福山通運 創業者 渋谷昇(しぶや のぼる) [1904-1994]を取り上げました。
《 創業22年で大手運送会社を築き株式上場を果たした、卓越した事業家 》
ぜひご一読ください。
福山通運創業者の渋谷昇は、1904(明治37)年、広島県芦品郡有磨村(現・福山市芦田町)下有地に、父・新太郎、母・トモの次男として生まれました。渋谷家は土建業を営む旧家でしたが、1919(大正8)年に備後地方を襲った大水害により、手がけていた工事全てが消失。復旧工事の最中に再び大水害が起こり、甚大な被害を被った渋谷家は、先祖伝来の土地のほとんどを手放しました。
翌1920(大正9)年、昇は 府中尋常高等小学校(現・府中市立府中学園)卒業後、広島県立福山中学校(現・福山誠之館高等学校)を受験し合格しますが、家業が窮地に陥っていたこともあり、熟慮の末、大崎上島にある広島県立商船学校(現・広島商船高等専門学校)に進みました。しかし、在学中に持病が悪化、休学して芦田町の実家に戻りました。その後、商船学校を中退し家業の土建業に専念、1947(昭和22)年、土建業の渋谷組を設立しました。
翌1948(昭和23)年、戦時の統合会社だった広島県貨物自動車・福山支社が分離独立し、新たに保有車両96台、従業員272名の「福山貨物運送株式会社」として再出発。このとき乞われて社長に就任したのが昇でした。社長に就任すると、営業所経営に独立採算制を導入、車両管理の重要性にも着目し自社整備工場を設置。さらには、遠距離輸送に耐え得る頑丈なディーゼルトラックを他社に先駆けて導入するなど、事業基盤の強化を図りました。
1950(昭和25)年、福山駅で通運事業(鉄道利用運送事業)の免許を取得するとともに、社名を「福山通運株式会社」に改め、翌年には、姉の嫁ぎ先で姻戚関係にある小丸豊松・法之親子を渋谷組から福山通運に呼び寄せ、ともに業務拡大に邁進しました。
昇は早くから路線便(特別積合せ輸送)に着目、大阪-広島間の定期便を開始し、その後は着々と路線免許を取得して業容を拡大。1960(昭和35)年には東海道路線の運行を開始し東京へ進出、大手路線企業の仲間入りを果たすとともに、「和」や「協調」という経営理念を基本に据え、労使一体の下、さらなる飛躍を図りました。
業界の常識を破り、1968(昭和43)年の名古屋を皮切りに大阪、翌年には東京に業界随一の規模を誇る巨大ターミナルを建設。1970(昭和45)年に東証二部上場、翌々年に東証一部へ指定替え。積極的に大型トラックを導入、事業者向けの運送事業で業績を伸ばし、昇は創業からわずか22年で東証上場の全国屈指の運送会社を築き上げました。その後、石油ショックで他社が減量経営する中、昇は全国ネットワークの拡充や業界初の高速自動仕分け機を導入するなど設備投資を拡大、優れた先見性とリーダーシップで業界をリードしました。
また、ボウリング事業やホテル事業など運送事業以外でも事業展開する傍ら、私財を投じて財団法人渋谷育英会(現・公益財団法人渋谷育英会)や美術館を設立するなど、地域の発展に多大な貢献をしました。
写真提供 : 福山通運株式会社
福山通運のトラック(1965年頃)
〈写真提供 : 福山通運株式会社〉
[初出:中国ビジネス情報2024年9月1日号・びんご経済レポート2024年9月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2024年秋号]