第1回 豊田 正市 (とよた しょういち) [1915-1986]
《紅茶を飲む際のティーパックをヒントに、「だしパック」を発明》

第1回は、豊田水産加工(現・カネソ22)初代社長 豊田正市(とよた しょういち) [1915-1986]を取り上げました。
《 紅茶を飲む際のティーパックをヒントに、「だしパック」を発明 》
ぜひご一読ください。
2013(平成25)年、「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。和食の基本「だし(出汁)」は、素材本来の味を引き立て「うま味」を引き出します。このだしを手軽にとれるようにしたのが、食品メーカー・カネソ22が発明した「だしパック」です。
カネソ22の創業家・豊田家は、福山開祖・水野勝成公が福山の地に入った1619(元和5)年、伊勢の桑名から備後福山に来て、代々「桑名屋」の屋号で商売をしていました。
1882(明治15)年、豊田宗平が海産物問屋『桑宗』を、広島県深津郡下魚屋町(現・福山市宝町)で創業。桑を鍬(くわ)に例え「 」で表し、宗平の「ソ」と組み合わせた「
」(カネソ)という商標を使い始めました。
明治末期、同じ福山の海産物問屋・安部商店の安倍和助が、肥料用の乾イワシを削って「削り節」として売ったところ、爆発的に売れ大成功を収めたことに触発され、1916(大正5)年、宗平の子・豊田傳七(豊田伝七)も削り節・花かつおの製造を開始。5年に及ぶ試行錯誤の末、様々な魚種も削れる豊田式削節機を考案、これが現在の削節機の原型となりました。1945(昭和20)年の福山空襲で工場を焼失しますが、2年後には生産を再開しました。
1949(昭和24)年、海産物問屋『桑宗商店』からかつお節製造部門を分離独立、同年に『豊田水産加工(現・カネソ22)』として会社設立、初代社長に傳七の子・豊田正市が就任しました。
20131961(昭和36)年、「アメリカでは紅茶を飲む際、手軽なティーパックが大流行しており、調味料も近い将来インスタントが喜ばれるようになる」という友人の話をヒントに、正市は日本で初めてティーパック式のだしの開発に着手しました。当時はティーパックの包装資材も製造機械もない文字通り手探りの状態で、その製作から始めた正市は、鉄工所勤務経験のある職人を採用して夜中まで製作に没頭。懸命な努力を重ねた結果、約半年で機械を完成させ、翌1962(昭和37)年「だしパック」を発明、『味パック』という商品名で発売しました。
『味パック』の特長は、味のよい煮干しいわしを粉末化することによりだしが出やすく、乾燥させることで変質防止ができ衛生的で、さらに製造ラインを自動化することで加工費を抑え、消費者に安価で提供できることでした。消費者の支持が得られると自信を持って積極的に販売を開始したものの、商品のアイディアが斬新すぎ知名度もまったく無かったため、思うように売れず大変苦労しました。
発売から10年が経過した頃から、業務用に加え一般消費者からも直接注文が入り出し、徐々に売上げを拡大させていきました。1975(昭和50)年頃には安全安心の商品を求める生協組合員の強い支持を得て『味パック』は、全国の生協を中心に急速に普及しました。近年では天然だしを手軽にとれる便利さが消費者の人気となり、スーパーや百貨店、通販などで売上を伸ばしています。
写真提供 : カネソ22
だしパック『味パック』
(写真提供 : カネソ22)
[初出:中国ビジネス情報2024年3月1日号・びんご経済レポート2024年3月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2024年春号]