歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第51回 足利 義昭 (あしかが よしあき)[1537–1597]

《鞆の浦に拠り、幕府再興を目指した室町幕府最後の将軍》

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第51回は、鞆の浦に拠り、幕府再興を目指した室町幕府最後の将軍 足利 義昭(あしかが よしあき)[1537–1597]を取り上げました。
《「信長包囲網」の一角を担い、戦国動乱の政局に大きな影響を与えた》
ぜひご一読ください。
    
    室町幕府第15代にして最後の将軍・足利義昭は、1537(天文6)年、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれました。将軍家の子として生まれながら、幼くして出家し、奈良の興福寺一乗院に入って覚慶と名乗りました。ところが1565(永禄8)年、第13代将軍である兄・義輝が三好三人衆や松永久通らに殺害されると、還俗し、将軍位を目指して諸国を流浪しました。そして1568(永禄11)年、織田信長に擁立されて上洛を果たし、第15代将軍に就任しました。
    しかし、義昭と信長の思惑の違いが次第に表面化。義昭が将軍として自ら政務を執ろうとしたのに対し、信長は強大な軍事力を背景に実権を握ろうとしました。こうして両者の対立は深まり、義昭は諸大名へ「信長を討て」との御内書を発し、浅井長政・朝倉義景、武田信玄、毛利輝元、石山本願寺など、信長に対抗する勢力との連携を画策。いわゆる「信長包囲網」を形成し、その一角を担いましたが、この包囲網は信玄の急死などによって瓦解。1573(元亀4)年、義昭は信長によって京都から追放され、室町幕府は事実上の終焉を迎えました。
    それでも義昭自身は、将軍としての立場を捨てたわけではなく、再起を図って各地を転々とした後、1576(天正4)年、毛利氏を頼りその庇護の下、備後国鞆(現・広島県福山市鞆町)に移り、亡命政権「鞆幕府」を樹立。約11年にわたり、この地を拠点としました。鞆の浦は瀬戸内海航路の要衝で、古くから潮待ちの港として栄えました。京都を追われた義昭にとって、西国諸勢力と結んで幕府再興を目指す上で、政治的にも軍事的にも大きな意味を持つ要地でした。また、鞆の浦は室町幕府の祖・足利尊氏が形勢逆転の契機となる院宣を受け取った縁の地でもあり、義昭にとって再起を期すにふさわしい場所でした。このように、室町幕府の始まりと終わりに鞆の浦が関わったことから、「室町幕府は鞆に興り、鞆に滅びる」といわれています。
    義昭は、毛利輝元を鞆幕府の中核的な後ろ盾とし、近臣や奉公衆、奉行衆ら100人以上を従えながら、諸大名へ書状を送って信長に対抗する働きかけを続けました。また、毛利氏をはじめ西国の有力者との結びつきを維持しつつ、大名間の調停を行うなど、一定の政治的影響力、将軍としての威厳を保ちました。義昭の御座所は、現在の鞆城跡周辺、すなわち鞆の浦歴史民俗資料館が建つ高台一帯が有力視されていますが、その一方で、日蓮宗の寺院・常国寺(福山市熊野町)や津之郷(福山市津之郷町)など、備後南東部の複数地点にも置かれていたとみられます。
    1582(天正10)年、本能寺の変で信長が倒れると、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が瞬く間に明智光秀を討ち取り、実権を握ったため、幕府再興の夢は実現しませんでした。1587(天正15)年、秀吉の和解工作を受け入れた義昭は帰京し、翌年に将軍職を返上。晩年は秀吉の御伽衆として大坂(現・大阪)で過ごし、1597(慶長2)年、同地にて61歳で亡くなりました。
    
    

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)
    

鞆の浦[矢印が鞆城跡]
(写真提供:福山観光コンベンション協会)
    
    
《参考文献》
・『足利義昭』
  奥野高広
  吉川弘文館 1960年
    
・『戦国史をななめに斬る 鞆幕府』
  川西利衛
  福山商工会議所 1983年
    
・『信長と将軍義昭』
  谷口克広
  中央公論新社 2014年
    
・『足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』
  久野雅司
  戎光祥出版 2017年
    
・『天下人と二人の将軍 信長と足利義輝・義昭』
  黒嶋 敏
  平凡社 2020年
    
・『将軍 足利義昭 信長を一番殺したかった男』
  しま たけひと
  双葉社 2020年
    
    
《協力》
・福山市鞆の浦歴史民俗資料館
    
・福山観光コンベンション協会
    
    
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2026年7・8月号]