備後の経営者群像

第10回 青山 五郎 (あおやま ごろう) [1930-2008]

《「日本一の洋服屋」を一代で創り上げた経営者》

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第10回は、青山商事 創業者 青山五郎(あおやま ごろう) [1930-2008]を取り上げました。
「日本一の洋服屋」を一代で創り上げた経営者
ぜひご一読ください。
    
    『洋服の青山』の名で知られる日本一の紳士服チェーン・青山商事を創業した青山五郎は、1930(昭和5)年、広島県府中市に生まれました。広島県立府中中学校(現・府中高等学校)を卒業しましたが、病気のため進学を断念。兄たちが一流大学へ進む中、地元の大蔵省専売局(現・日本たばこ産業)に就職しました。このときの悔しさが、五郎の起業家精神の原点となりました。
    1964(昭和39)年、五郎は安定した勤めを辞め、府中市の商店街にあった自宅を改造してわずか10坪ほどの小さな洋服店を始めました。創業メンバーは兄弟親族合わせて4人。創業の夜、五郎は「どうせやるなら日本一の洋服屋になろう」と宣言しました。しかし、無名の店には信用がなく、商品は現金で仕入れて、客には月賦で販売するため、資金繰りに苦労しました。紳士服だけでは食べていけず、漬物や干物、清涼飲料水等を扱った時期もありました。
    1972(昭和47)年、米国を視察した五郎は、車社会の到来を予感。駅前商店街ではなく、駐車場を備えた広い郊外店に将来性があると考え、1974(昭和49)年、東広島市西条町に日本初の郊外型紳士服店「洋服の青山 西条店」を開店。今では当たり前となっている広い売り場に豊富な品ぞろえ、車で来店できる店舗は、大きな賭けでした。開店当初、知名度が無いため、顧客は思うように来ませんでした。その対策として五郎は、半径15キロ圏内に毎週チラシを配り続けました。この徹底した大量のチラシ作戦は、「青山の紙爆弾」と呼ばれ、大きな集客力を発揮しました。また、当時の紳士服業界では、売れ残りをメーカーに戻す委託仕入れが一般的でしたが、その分、仕入れ値には返品リスクや販売員の人件費が上乗せされ、商品価格は高くなりがちでした。五郎はそこに目をつけ、リスクを取って買い取る代わりに、良い商品を安く仕入れ、郊外型多店舗展開による大量販売を組み合わせることで、業界の常識を打ち破りました。その結果、1983(昭和58)年には売上高100億円を突破しました。
    しかし、急成長後に大きな危機が訪れました。1985(昭和60)年、東北地方へ進出したものの、地域の商習慣や消費者感覚を十分につかめず、業績は悪化。さらに、五郎自身が脳梗塞で倒れました。上場を目前にした、正に最大の試練でした。それでも五郎は病床から指示を出し、退院後も寝る間も惜しんで経営の立て直しに注力。急成長の中で緩んでいた社員の意識や現場運営を見直し、店長を売り場の中心に据えて責任と権限を付与。現場の力を引き出す改革によって、再び勢いを取り戻し、1987(昭和62)年、郊外型店100店を突破し、株式上場を果たしました。五郎は、常識にとらわれない発想と粘り強さ、そして「人と同じ事はやらない」という経営哲学の下、数々の困難を克服し、日本の紳士服業界の頂点に立つという偉業を成し遂げた非常に優れた経営者でした。
    

写真提供 : 青山商事株式会社
    

日本初の郊外型店「洋服の青山 西条店」
〈写真提供 : 青山商事株式会社〉
    
    
[初出:中国ビジネス情報2026年6月1日号・びんご経済レポート2026年6月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2026年夏号]