第53回 清浄院 (せいじょういん)[1582ー1656]
《福山開祖・水野勝成の妹にして加藤清正の正室》
第53回は、福山開祖・水野勝成の妹にして加藤清正の正室 清浄院(せいじょういん)[1582–1656]を取り上げました。
《関ヶ原前夜の危機を乗り越え、清正亡き後も加藤家を支えた》
ぜひご一読ください。
1582(天正10)年、清浄院(かな姫)は三河(現・愛知県)刈谷城主・水野忠重の娘として生まれました。兄は、後に初代福山藩主となる水野勝成。父・忠重の姉は、徳川家康の母・於大の方で、清浄院は家康の従妹にあたります。
その後、家康の養女となり、1599(慶長4)年、18歳で肥後(現・熊本県)の大名・加藤清正に嫁ぎ、大坂屋敷に入りました。豊臣秀吉の死後、家康が台頭する中、豊臣恩顧の有力大名・清正と徳川家を結ぶ政略結婚でしたが、清正は清浄院を正室として丁重に遇しました。
翌1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いを前に、清浄院に大きな危機が迫りました。東軍に与する清正が国許の肥後にいる中、西軍が大坂屋敷にいた清浄院らを人質に取ろうと動いたのです。人質になれば清正の行動を縛りかねないと危惧した清浄院は、病人に扮して密かに大坂を脱出。船内の水桶の底に隠れて瀬戸内海を航行し、清正と同盟関係にあった黒田如水(黒田官兵衛)の支援を受け、過酷な山中越えを経て肥後に帰り着きました。東軍に属した大名の妻で、大坂から無事に脱出できたのは、清浄院と黒田長政の正室だけでした。この命がけの脱出の翌年、清正との間に八十姫(後の瑤林院)が生まれました。
1611(慶長16)年に清正が没すると、清浄院は幼くして後を継いだ2代藩主・加藤忠廣(清正の側室の子)を、清正の正室という立場から支えました。また、2代将軍・徳川秀忠の養女・崇法院(家康の三女の娘)を忠廣の正室に迎えるなど、清正亡き後も加藤家と徳川家を結ぶ架け橋として力を尽くしました。
しかし1632(寛永9)年、忠廣は幕府から改易を命じられ、加藤家は肥後の領地を失いました。この時、熊本城受け取りの大役を任されたのが、兄の勝成と甥の勝俊でした。勝成は妹の清浄院を引き取り、領国の備後福山へ連れ帰りました。清浄院は兄の庇護の下、福山で数年間〈推定〉過ごしました。鞆の浦の日蓮宗・法宣寺(福山市鞆町)には、熊本城からもたらされたと伝わる清正の木像が祀られており、清浄院と福山との縁を今に伝えています。清浄院は夫・清正の法華信仰を受け継いで日蓮宗を篤く信仰し、身延山久遠寺や京都の大本山本圀寺を支援するなど、宗門の発展にも寄与しました。
その後、京都へ移り住み、清正ゆかりの本圀寺に身を寄せ、夫の菩提を弔いながら20余年を過ごしました。1656(明暦2)年、75歳でその生涯を閉じ、本圀寺の清正公廟の隣に葬られました。
なお、清浄院の娘・八十姫(瑤林院)は、勝成の養女となり、家康の十男で紀州徳川家初代・徳川頼宣に嫁ぎました。2人の間に子はなく、後の8代将軍・徳川吉宗と八十姫に血のつながりはありませんが、八十姫は吉宗の祖父・頼宣の正室であり、吉宗にとって祖母にあたる存在でした。吉宗は、熊本から清正の伝記『清正記』を取り寄せて読むなど、清正に強い関心を寄せていたといわれています。

清浄院座像[法宣寺〈熊本市南区川尻)]
〈写真提供:刈谷市歴史博物館〉

加藤清正像
〈写真提供:法宣寺(福山市鞆町)〉

腹ごもりの加藤清正像
〈写真提供:法宣寺(福山市鞆町)〉
《参考文献》
・『加藤清正「妻子」の研究』
水野勝之・福田正秀
ブイツーソリューション 2007年
・『続 加藤清正「妻子」の研究』
水野勝之・福田正秀
ブイツーソリューション 2012年
《協力》
・水野勝之氏(水野勝成公二十代 後裔)
・刈谷市歴史博物館
・法宣寺(福山市鞆町)
・法宣寺(熊本市南区川尻)
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2026年10月号]








