第9回 内海 得治郎 (うつみ とくじろう) [1916-2002]
《松永カントリークラブ、マナック等、多方面で事業設立と運営に関わり、地域産業を振興》
第9回は、光和物産 創業者 内海得治郎(うつみ とくじろう) [1916-2002]を取り上げました。
《 松永カントリークラブ、マナック等、多方面で事業設立と運営に関わり、地域産業を振興 》
ぜひご一読ください。
戦後の福山・松永地域の復興と発展に大きな足跡を残した実業家で政治家の内海得治郎は、1916(大正5)年、広島県沼隈郡今津町(現・福山市今津町)に生まれました。幼少期より学業に優れ、広島県立福山誠之館中学校(現・福山誠之館高等学校)を経て、1940(昭和15)年に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。同年、三菱鉱業株式会社(現・三菱マテリアル株式会社)に入社しましたが、翌年に応召され、陸軍大尉として終戦を迎えています。
復員後、得治郎は、木履製造・製塩業を家業とする内海商店の代表となりますが、同時に、1947(昭和22)年に松永町議会議員に出馬し、当選。さらに1951(昭和26)年には広島県議会議員となって、以後3期12年にわたって県政に携わり、地場産業の振興や社会基盤整備などに力を注ぎ、地域の声を県政に届けるという大きな役割を果たしました。また、県議になった同年、家業は弟に譲り、自らは、建材販売業の光和物産株式会社を創立しました。
得治郎の生涯を通して最も情熱を注いだ事業の一つが、ゴルフ場の開発です。得治郎は、松永出身のゴルファーでゴルフ場設計者・佐藤儀一にコース設計を依頼し、資金集め等に奔走。備後地域の有力財界人の協力もあり、計画は順調に進展し、1960(昭和35)年にはゴルフ場運営の備南観光開発株式会社(現・株式会社松永カントリークラブ)を設立。翌年には、社長として松永カントリークラブを開場させました。ゴルフがまだ珍しかった当時としては非常に大胆な挑戦でしたが、今では、県内屈指の名門ゴルフ場として高い評価を得るまでに成長しています。
また、当時松永では製塩業が盛んで、塩田から採れる「にがり」などの地元資源を活かし、1948(昭和23)年、松永化学工業株式会社(現・マナック株式会社)を設立し、経営に参画。マナックを上場企業へと導くための大きな足掛かりを作りました。
さらに、その人望から、広島県中小企業団体中央会会長を初めとする多方面で要職を歴任。特に、小林政夫福山商工会議所会頭の補佐として、長年副会頭を務める傍ら、宮澤喜一衆議院議員の後援会幹事長として宮澤総理の誕生に尽力するなど、福山の夢の実現への貢献度は、高いといえます。広島ホームテレビや福山大学に見るその足跡は、しっかりと地域に根付いています。
日本鋼管の誘致や、福山に新幹線を停めるなどの働きかけにも、その協力を惜しまず、地元愛と中小企業の振興のために生涯をかけたといっても過言ではない人生でした。困難な時代にあっても挑戦を恐れず、政治と経済の両面から郷土を愛しその発展を支え続けた得治郎の功績は、今日の福山・松永地域の礎として、今なお高く評価されています。

写真提供 : 光和物産株式会社

松永カントリークラブのコース全景
〈写真提供 : 光和物産株式会社〉
[初出:中国ビジネス情報2026年3月1日号・びんご経済レポート2026年3月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2026年春号]








