第8回 河田 格至 (かわた かくし) [1936-]
《民の力で切り拓いたモノづくり拠点「福山テクノ工業団地」の生みの親》
第8回は、福山熱煉工業 創業者 河田格至(かわた かくし) [1936 – ]を取り上げました。
《 民の力で切り拓いたモノづくり拠点「福山テクノ工業団地」の生みの親 》
ぜひご一読ください。
金属熱処理業「福山熱煉工業」の創業者で、「福山テクノ工業団地」の生みの親である河田格至は、岡山県笠岡市の北木島で生まれました。岡山県立笠岡工業高等学校卒業後、大阪で石油関連の会社に就職。その後、金属熱処理の会社へ移り、そこで技術を習得しました。「熱処理工場がなければ機械金属業界はない」と考えての転職でした。
1965(昭和40)年、日本鋼管(現・JFEスチール)福山進出の情報に接し、大阪から戻り、福山の鉄工業者をしらみつぶしに聞き取り調査。その結果、需要は十分にあると判断、北木島の親戚中を回り資金を調達。妻の実家の土地を借りて、福山市本庄町で金属熱処理を主体とした「福山熱煉工業所」を創業しました。1969(昭和44)年には「福山熱煉工業株式会社」を設立。業績は順調に伸び、1972(昭和47)年、本庄町から鉄工所が集結した福山市千田町の「福山鉄工センター」へ工場を全面移転しました。
1985(昭和60)年、格至は鉄工センターの手狭な環境を脱するため、新工業団地の造成を同センターの有志に提案。土地探しは難航しましたが、福山港を望み、精密加工業に理想的な固い岩盤層から成る、福山市箕島町・高丸山の山林35万㎡を見いだし、買収を即断。資金面では、協同組合設立前という不利な状況にもかかわらず、格至個人の信用で中国銀行から無担保で40億円の融資を引き出しました。
1989(平成元)年、「福山テクノ協同組合」を設立し、「福山テクノ工業団地」造成に向けてスタートしました。格至は団地造成で265人もの地権者との難交渉に挑み、毅然と対応する一方で、地元の協力があってこそと地元住民への感謝を忘れず、2年で買収を完了しました。1993(平成5)年から順次、組合員企業が操業を開始。翌年には福山熱煉工業も工場が完成し操業を始め、現在では金属熱処理で業界トップクラスとなっています。
工業団地竣工後には、団地敷地の約25%を占める製材機械メーカー「シーケイエス・チューキ」が、社長の急逝により倒産の危機に瀕しました。1998(平成10)年、格至は団地の存続を賭けてシーケイエス・チューキ社長に就任、見事再建を果たし、組合の屋台骨を死守しました。[現在は格至の長男・河田将人が社長、格至は会長を務めています。]
2009(平成21)年、格至の次男・河田一実が福山熱煉工業の2代目社長に、格至は会長に就任しました。また、2024(令和6)年には、グループ会社の「アイアンオイル」を持株会社とするホールディングス化を図り、組織を再編しました。
総事業費200億円に及ぶ「福山テクノ工業団地」は、行政主導ではなく、民間企業自らが資金や情熱を注いで造った全国的にも稀有な工業団地です。格至は、民の力で「モノづくりのまち福山」を象徴する拠点を築き上げました。2025(令和7)年秋、これまでの永年の功績に対し、旭日単光章を受章しました。

写真提供 : 福山熱煉工業株式会社

「福山テクノ工業団地」全景
〈写真提供 : 福山熱煉工業株式会社〉
[初出:中国ビジネス情報2025年12月1日号・びんご経済レポート2025年12月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2026年冬号]








