備後の経営者群像

第5回 鴫谷 定昌 (しぎたに さだまさ) [1935-2023]

《祖業を転換、国内シェア2位の円筒研削盤メーカーを育て上げる》

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第5回は、シギヤ精機製作所 3代目社長 鴫谷 定昌(しぎたに さだまさ) [1935-2023]を取り上げました。
祖業を転換、国内シェア2位の円筒研削盤メーカーを育て上げる
ぜひご一読ください。
    
    1911(明治44)年、現在の岡山県井原市芳井町出身の大工・鴫谷仲次郎が、備後絣を織る機械を製造する「オリエンタル織機工業」(5年後に「シギヤ織機工業所」に変更)を広島県深安郡福山町(現・福山市東桜町) に創設。これが「円筒研削盤」で国内シェア2位を誇る工作機械メーカー・シギヤ精機製作所(福山市箕島町)の創業です。
    1935(昭和10)年、3代目となる鴫谷定昌は、2代目・泰慈の長男として福山市西町(現・東桜町) に生まれました。福山市立西小学校、福山市立第二中学校を経て、広島県福山南高等学校(現・広島県立福山工業高等学校)機械科に進学。在学中に工作機械を自分の手で造りたいと思い、大学受験をやめて学校にあった機械の本や米国の工作機械雑誌を貪り読み、研削盤の開発に着手しました。
    1958(昭和33)年、父の死により会社を継ぎ、社名を「シギヤ精機工業所」に改称、事業を「織機」から「工作機械」に全面転換しました。1960(昭和35)年、定昌は個人企業を法人化し「株式会社シギヤ精機製作所」を設立、社長に就任しました。  
    当初開発した万能兼工具研削盤が売れず苦労しましたが、1960年代に入り高度経済成長が本格化。家電ブームが起こり、洗濯機や冷蔵庫、扇風機、ミシンなどの回転軸の仕上げに必要な研削盤の需要が急拡大、売上が急伸しました。1962(昭和37)年には、社員の定着率や勤労意欲の向上のため、当時の工場としては画期的な月給制や社内持株制度を導入。1964(昭和39)年、『「よい環境」「よい製品」「よい人生」』という経営理念を策定しました。1970年代からは自動車メーカーとも取引を開始。初期の汎用機製造から顧客の注文に応じた専用機の開発や研削盤のNC(数値制御)化に積極的に取り組み、現在ではほとんどがNC工作機械となっています。  
    また、工作機械は、産業界の設備投資の動向に左右され好不況の波が大きいため、安定的な経営の実現には事業の柱がもう一つ必要と考え、研削盤の技術が応用できる新規事業を模索。こうした中、眼鏡フレームに合わせてレンズの外形を削る「玉すり機」の開発に成功、1990(平成2)年頃まで繁忙を極めました。
    1994(平成6)年、バブル崩壊後、大幅な受注減に見舞われ業績回復の見通しが立たないため、やむを得ず希望退職を募り、66名が退職しました。このとき定昌は、「よい人生」という経営理念に反するこのような行為は二度とやってはならない、と心に固く誓いました。2000(平成12)年、定昌の長男・憲和が4代目社長に、定昌は会長に就任しました。
    蒸気機関車の模型造りが趣味の定昌は、井笠鉄道等で活躍した蒸気機関車を4分の1模型で再現。会社敷地内の線路を走る「シギヤ軽便鐵道」は、福山ばら祭に出展し人気を博しています。この寸分違わぬ蒸気機関車模型は、大好きなモノづくりの道を走り続けた定昌の技術力と人生を象徴するものです。
    

〈写真提供 : 株式会社シギヤ精機製作所〉
    

「シギヤ軽便鐵道」の蒸気機関車
 〈写真提供 : 株式会社シギヤ精機製作所〉
    
    
[初出:中国ビジネス情報2025年3月1日号・びんご経済レポート2025年3月1日号・ラジオコラボマガジン『RB』2025年春号]