歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第49回 頼 山陽 (らい さんよう)[1780–1832]

《菅茶山が主宰する「廉塾」都講(塾頭)を務めた儒学者》

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第49回は、菅茶山が主宰する「廉塾」都講(塾頭)を務めた儒学者 頼 山陽(らい さんよう)[1780–1832]を取り上げました。
《尊皇の志士に多大な影響を与えた歴史書『日本外史』を執筆》
ぜひご一読ください。
    
    頼山陽は、江戸時代後期を代表する儒学者で漢詩人です。1780(安永9)年、大坂(現・大阪)で生まれました。幼名は久太郎、名は襄、山陽は号です。父の頼春水は広島藩に仕えた儒学者で、母の梅颸も教養豊かな歌人でした。山陽は、学問や文学に親しむ家庭で育ち、幼い頃から詩文に優れ、とりわけ歴史に強い関心を示しました。
 1788(天明8)年、広島藩学問所(現・修道中学校・修道高等学校)に入り、学問の道へ進みました。才能は際立っていましたが、気性が激しく、自分の思う道を進みたいという強い願望を持っていました。1797(寛政9)年に江戸へ遊学。父の学友・尾藤二洲に学ぶなど、才気溢れる青年として成長しました。
 ところが1800(寛政12)年、脱藩を企て京都へ向かうも、叔父の頼杏坪に連れ戻されて自宅に幽閉されました。約3年間の辛い謹慎生活の中、学問と著述に打ち込み、後の代表作『日本外史』の初稿を書き上げたといわれています。山陽は、逆境の中にあっても自分を見失わず、著述に全精力を傾注し、未来を切り拓こうとしました。
 その後、謹慎が解かれた山陽は、広島藩学問所の助教となり、さらに1809(文化6)年、父の友人で儒学者の菅茶山に招かれて、備後国神辺(現・福山市神辺町)の廉塾で都講(塾頭)に就任。廉塾は菅茶山が開いた名高い私塾で、山陽は塾生を指導する中心的な役割を担うとともに自己研鑽に励みました。同じ頃、尾道の女流画人・平田玉蘊と深い親交を結び、後に悲恋として語られる関係にありました。山陽にとって、当代随一の漢詩人・菅茶山という優れた師の下で過ごしたことが、後の大きな飛躍の礎となりました。神辺時代の山陽は、学者としての実力を認められながらも、自分の学問や著作をもっと広く世に問い、天下に名を成したいという強い思いが胸の内にたぎっていました。
 1811(文化8)年、ついに山陽は京都へ出奔。山陽を後継者に考えていた茶山にとって大きな痛手となりました。京都では塾を開き、多くの文人たちと交流しながら著述に励みました。さらに九州を旅して儒学者の広瀬淡窓らとも交わり、各地の知識人との交流を深めました。やがて京都の東山を望む地に住まいを構えた山陽は、長年にわたり著述に専念し、1826(文政9)年、ついに代表作『日本外史』を完成させました。この書は、武家の時代の歴史を人物中心に力強く描いたもので、幕末から明治にかけて広く読まれ、尊王倒幕を志す人々に大きな影響を与えました。
 また、漢詩人としても高名で、川中島の戦いを詠んだ「鞭声粛粛夜河を過る」で始まる漢詩『不識庵機山を撃つの図に題す』は有名です。他にも、『日本楽府』など、日本の歴史上の出来事を独自の感性で表現する等、歴史書と詩の両方で大きな足跡を残しました。晩年は病に苦しみながらも筆を置かず、1832(天保3)年、53歳で生涯を閉じました。歴史を通して人の生き方を問い続け、時代を動かした偉大な人物でした。
    
    

頼山陽像(部分)
〈写真提供 : 京都大学総合博物館〉
    

廉塾(手前は筆洗場)
〈写真提供 : 広島県立歴史博物館〉
    

〈写真提供:頼山陽史跡資料館〉
    
    
《参考文献》

・『頼山陽とその時代 (上・下)』
  中村真一郎
  筑摩書房 2017年
    
・『頼山陽 ー 詩魂と史眼』
  揖斐 高
  岩波書店 2024年
    
・『明治維新の暁鐘 頼山陽 ー その人と志業』
  安藤英男
  東洋経済新報社 1972年
    
・『日本の名著28 頼山陽』
  頼 惟勤
  中央公論社 1972年
    
・『頼山陽と平田玉蘊』
  池田明子
  亜紀書房 1996年
    
・『頼山陽 (上・下)』
  見延典子
  徳間書店 2007年
    
・『劇画 鞭声粛々 頼山陽の生涯』
  布田浩隆
  安芸窯業 1995年
    
    
《協力》

・ 広島県立歴史博物館
    
・頼山陽史跡資料館
    
・京都大学総合博物館
    
    
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2026年5月号]