歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第46回 野々口 立圃 (ののぐち りゅうほ)[1595–1669]

《福山に長期滞在し、文芸を広めた「福山俳諧の祖」》

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第46回は、福山に長期滞在し、文芸を広めた「福山俳諧の祖」 野々口立圃(ののぐち りゅうほ)[1595–1669]を取り上げました。
《「草土」から「草戸」への地名変更は、野々口立圃の俳句に由来》
ぜひご一読ください。
    
    江戸時代前期の俳人・野々口立圃(雛屋立圃)は、1595(文禄4)年、京都一条(異説あり)に生まれました。姓は野々口、名は親重、通称は庄右衛門など諸説あり、「立圃」等の号を用いました。生家は京都で雛人形細工を営み、「雛屋」と呼ばれ、家業にちなみ雛屋立圃と呼ばれました。
    立圃は若い頃から文学や芸術に幅広く親しみ、連歌は猪苗代兼与、和歌は烏丸光広、書は尊朝法親王、画は狩野探幽に学び、俳諧は上方俳壇の重鎮・松永貞徳に師事しました。立圃はその後、師から離れて独自の流派「立圃流(雛屋流)」を開き、俳画(俳句を賛した簡略な画)の創始者としても知られました。
    著作には、日本最初の俳諧式目『はなひ草』、発句集『誹諧発句帳』、句集『空つぶて』のほか、源氏物語を十帖に要約し挿絵を付した『十帖源氏』などがあります。立圃の文芸活動は京阪に広まり、その才は高く評価されました。ユーモアと風雅を兼ね備えた立圃の作風は、後の松尾芭蕉らに影響を与えたといわれています。
    1651(慶安4)年、立圃は福山藩士・荻野新右衛門重富との俳諧を通じた縁で、福山にやってきました。この来訪がきっかけで、福山藩第2代藩主・水野勝俊の目にとまり、立圃は御伽衆として召し出されました。御伽衆とは、藩主の傍らに仕えて教養と文芸によって藩主の日常に趣を添える役で、高い学識を備えた者のみに与えられる地位でした。
    立圃は、1662(寛文2)年までの約11年間を福山で過ごし、藩主や藩士、町人に俳諧や和歌を教え広めるなど、文芸普及に多大な貢献をしました。また、藩祖・水野勝成の追悼記や勝俊の最期を伝える『信解院殿御臨終記』などを著し、福山藩にとって重要な史料を多数残しました。
    また、立圃は福山の名所や風物を題材とした紀行文を執筆、中でも草戸千軒町の繁栄や草戸明王院周辺の景観を描いた『福山近在名所記』(通称『草戸記』)はよく知られています。その中で詠まれた
※「ほとほとと たゝけ草戸の 子規」
の一句は、地名表記を「草土」から「草戸」へと改める契機になったといわれています。文学が地域の歴史に直接的な影響を及ぼした好例といえます。
    立圃の下には多くの弟子や同好者が集まり、句作や書画を通じた交流が活発に行われました。こうして福山の地には、俳諧を中心とした教養豊かな文化サークルが芽生え、江戸初期の地方都市としては異例の文学的隆盛を誇りました。また、立圃は書や俳画の制作にも励み、寺社への奉納や門人への手本として多くの作品を残しました。『草戸記』等の野々口立圃文書は、現在も福山市指定重要文化財として大切に保存されています。
    1669(寛文9)年、立圃は75歳で生涯を閉じました。京に生まれた立圃が、福山の地に俳諧文化を根付かせた功績は特筆すべきもので、「福山俳諧の祖」として福山の文芸史においてひときわ光彩を放っています。
    
※[意訳](初夏の訪れを告げる) ホトトギスよ、草戸の里で、ほとほとと鳴く声が響くように鳴いておくれ。
    
    

『草戸記』 (明王院所蔵)
写真提供 : 福山市 文化振興課
    

野々口立圃の俳画
※作品が縦長のため、中央の白地部分を省略