第45回 河相 三郎(かわい さぶろう)[1859–1942]
《JR福塩線の前身「両備軽便鉄道」を創った実業家》
第45回は、JR福塩線の前身「両備軽便鉄道」を創った実業家 河相 三郎(かわい さぶろう)[1859–1942]を取り上げました。
《福山市会議長や衆議院議員等を歴任、政治家としても活躍》
ぜひご一読ください。
山陽本線福山駅と芸備線塩町駅を結ぶ「福塩線」の前身となる、福山・府中間を結ぶ「両備軽便鉄道」を創設した中心人物が、河相三郎です。民間救済組織「義倉」を創立した河相周兵衛を先祖に持つ三郎は、1859(安政6)年、備後国深津郡今町(現・広島県福山市今町)で、醤油醸造業の吉永屋を営む河相源三郎の次男として生まれました。三郎は、若くして村会議員に選ばれて以来、郡会議員や県会議員を歴任。その後も町村制施行後は福山町会議員、市制施行後は福山市会議員となり、2度にわたり福山市会議長を務め、その間に衆議院議員となりました。
1891(明治24)年、山陽鉄道(現・JR山陽本線)が福山まで開通すると、福山から府中・井原方面への鉄道網整備が大きな課題となりました。1895(明治28)年、府中の豪商・延藤吉兵衛(延藤重醇)ほか74人によって、福山・府中間の鉄道敷設が計画されましたが、資金難等により計画は頓挫。
その後、1910(明治43)年に軽便鉄道法が施行、次いで鉄道の建設補助を定めた軽便鉄道補助法が施行され、全国に鉄道敷設ブームが起きました。追い風が吹く中、1911(明治44)年、三郎たち地元有志が再び立ち上がり、「両備軽便鉄道株式会社」を設立、三郎は社長に就任しました。軽便鉄道は、線路幅が762mmで、一般的な鉄道線路幅1067mmに比べて狭く、車両や駅舎も小規模で、建設費や維持費を比較的安価に抑えることができました。
1914(大正3)年、難工事の未、両備軽便鉄道[福山・府中間22 ㎞]を開通させました。現在の本庄回り路線とは異なり、両備福山駅から胡町駅、吉津駅を通り、奈良津トンネルで大峠を越え、薮路を抜けて横尾駅に至るルートでした。営業成績は極めて良好で、乗客や貨物の増加により好業績を維持。鉄道は、福山から府中までの人と物の流れを一変させ、周辺の地域経済は活況を呈しました。
1922(大正11)年、神辺から高屋へ支線を延ばし、岡山県の井原方面とも結ばれ、備後経済の大動脈となりました。1926(大正15)年に「両備鉄道株式会社」に社名変更。翌年には福山・府中間を直流750ボルトで電化、全国に先駆け非電化の軽便鉄道を電化へと転換しました。1930(昭和5)年、昭和天皇が陸軍特別大演習を正戸山(福山市御幸町上岩成)山上でご覧になるため、両備軽便鉄道の御召列車を利用されました。軽便鉄道を利用して天皇が行幸されるのは史上初の出来事で、三郎はその栄誉を賜りました。1933(昭和8)年、両備鉄道は国有化され、「福塩線」となりました。翌年、線路幅を1067㎜へ拡幅する工事に着手。 1935(昭和10)年には現在の横尾までの西回りルートが完成し、備後本庄駅が新設されました。
その他、三郎は福山紡績や福山銀行等の経営にも関与し、政界のみならず福山経済界の中核としても活躍しました。なお、三郎の長男・河相壽太郎も福山商工会議所第2代会頭として地域経済界で重きを成しました。

出典 : 「福山市行幸光栄録」福山市役所(1931年)

今は無き「奈良津トンネル」前で
〈開通記念絵葉書 1914年〉
《参考文献》
・『人間シリーズ クローズアップ 備陽史』
田口義之
福山商工会議所 2003年
・『福山市史 下』
福山市史編纂会 編
国書刊行会 1983年
・『誠之館人物誌 河相三郎』
福山誠之館同窓会ホームページより
・『開通101周年復刻 両備輕鐡便覧』
葦陽文化研究会
児島書店 2015年
・『福山市行幸光栄録』
福山市役所 1931年
・『鉄道廃線跡を歩くⅣ 実地踏査失われた鉄道60』
宮脇俊三
JTB 1997年
・『軽便鉄道時代 北海道から沖縄まで“せまいせんろ”の軌跡』
岡本憲之
JTB パブリッシング 2010年
・『両備軽便鉄道に見る歴史のロマン -神辺・駅家・新市の歴史観光トレイル- 』
福山の歴史産業観光研究会
福山観光コンベンション協会 2013年
・『軽便鉄道入門』
松本典久
天夢人 2023年
《協力》
・ 福山市中央図書館
・田口義之氏(郷土史家)
・福山市歴史資料室
・福山市議会事務局
・福山市 文化観光振興部 文化振興課
・児島書店
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2025年12月号]








