第43回 窪田次郎(くぼた じろう)[1835‑1902]
《在野に生きた医師にして偉大な啓蒙思想家》

第43回は、在野に生きた医師にして偉大な啓蒙思想家 窪田次郎(くぼた じろう)[1835-1902]を取り上げました。
《「小学校」の前身となる、日本最初の「啓蒙所」を開設》
ぜひご一読ください。
窪田次郎は、幕末から明治期にかけて福山地方で活躍した蘭方医(西洋医学を学んだ医師)であり、優れた啓蒙思想家でした。1835(天保6)年、次郎は備後国安那郡粟根村(現・広島県福山市加茂町粟根)に、長崎や京都で学んだ蘭方医の父・窪田亮貞と母・孝の次男として生まれました。庄屋であった窪田家は祖父の代で没落、父は医業を営みました。次郎は阪谷朗廬と江木鰐水に儒学や詩文を、山成弘斎に蘭医学を学び、さらに緒方洪庵門下の蘭方医に師事。1862(文久2)年、27歳で帰郷し、父の後を継ぎました。
やがて医療のかたわら、教育や政治活動にも乗り出しました。1870(明治3)年、小学校の前身となる「啓蒙所」設置を建言し、翌1871(明治4)年、深津郡深津村(現・福山市東深津町)の長尾寺にわが国最初の啓蒙所を開設。男女を問わず7歳以上の子供に学問の機会を与えるこの試みは、翌年の明治新政府による「学制(わが国最初の近代学校教育制度に関する法令)」公布に先立つ事業として文部省(現・文部科学省)からも評価され、やがて啓蒙所は新制度の「小学校」に移行しました。また、村に代議員選出制度を導入し、住民自治を実現。さらに、県政に住民の声を反映させる県議会の前身ともいえる「小田県臨時民撰議院」の設立を提案し、自由民権運動の先駆者としても名を馳せました。
医師としては「衛生第一主義」を掲げ、「新国家は国民の健康と衛生から始まる」と主張。1873(明治6)年、備中・備後17郡の医師に呼びかけ、医師の情報交換の場として「田舎医術調所」の設置を提案しました。同年には、バセドウ病の国内第一例を報告。さらにコレラの予防にも尽力し、原因不明の風土病(日本住血吸虫症)を「片山病」と命名しました。また、安那郡共立衛生会などの「医会(医師の団体)」を組織し、合議による診断や病理解剖を行い、医師の連携による共同研究や広域活動を通じて医療水準の向上を図りました。さらに、医師と薬剤師の役割を分ける「医業分業論」を提唱し、医療制度改革の先駆けともなりました。
一方で、中央集権的な教育制度や県主導の医療行政とは距離を置き、医学校教授就任や官設医療機関への参加要請を固辞。同時代に福山藩医学校兼病院の院長を務めた寺地強平とは対照的に、次郎は粟根村近隣9か村の病苦を救うことを使命とし、終生在野の開業医として地域に寄り添い続けました。また、租税改革運動に取り組み、地域経済を支える金融組織の立ち上げや有志が集い社会や学問を語り合う勉強会を主宰。さらには医学書や啓蒙書を出版するなど、地方の近代化を多方面から推進しました。
1879(明治12)年、岡山に移住後も毎月帰郷し、墓参や医会への出席を欠かさず、晩年まで医師として研鑽を続け、68歳で没しました。「高禄を食むより只村医師として尽力す」を信条とした次郎は、近代医学を地方に根づかせるとともに、地方から民衆教育と自由民権運動を実践した稀有な人物でした。現在、生家跡は福山市の史跡に指定されています。
写真提供 : 広島県立歴史博物館
窪田次郎生家跡
(福山市加茂町粟根)
下岩成啓蒙所跡
(福山市御幸町下岩成)
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2025年10月号]