第42回 樋口季一郎(ひぐち きいちろう)[1888-1970]
《後にユダヤ人難民と北海道を救った福山歩兵第41連隊長》

第42回は、後にユダヤ人難民と北海道を救った福山歩兵第41連隊長 樋口季一郎(ひぐち きいちろう)[1888-1970]を取り上げました。
《福山時代の直属部下が「相沢事件」を起こし、「二・二六事件」を誘発》
ぜひご一読ください。
ユダヤ人難民を救った日本人として外交官・杉原千畝が有名ですが、他に陸軍中将・樋口季一郎がいます。季一郎は、1888(明治21)年、淡路島南端の兵庫県三原郡本庄村(現・南あわじ市阿万上町)に、父・奥濱久八と母・まつの長男として生まれました。11歳の時に両親が離婚、母の実家に引き取られ、地元の高等小学校終了後は、篠山の尋常中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校を経て、1918(大正7)年に陸軍大学校を卒業。この間、樋口家の婿養子に入った父の弟夫妻の養子となり、姓が奥濱から樋口に変わりました。その後、ウラジオストク特務機関やハバロフスク特務機関長などを経て、1925(大正14)年、ポーランドに駐在武官として赴任しました。
1933(昭和8)年、陸軍歩兵大佐に昇進し、福山の歩兵第41連隊長に就任。中央の喧騒を離れ、のどかな2年間の福山生活を送りました。酒どころの福山は酒好きの季一郎にとってまさに桃源郷で、余暇には釣りや松茸狩りを楽しみました。1935(昭和10)年、ハルビン第3師団参謀長に着任するため、福山を発った直後、直前まで部下だった陸軍中佐・相沢三郎が、東京の陸軍省で統制派の永田鉄山軍務局長を斬殺する「相沢事件」を起こし、皇道派と統制派の対立が激化。翌年の「二・二六事件」の遠因となりました。道義的責任を感じた季一郎は、進退伺を出しますが慰留されました。
1937(昭和12)年、陸軍少将に昇進した季一郎は、関東軍司令部付のハルビン特務機関長に就任。翌1938(昭和13)年末、ナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人が、満州国を通って上海経由でアメリカなどへ渡ろうと、満州国境近くのソ連領オトポールに多数押し寄せる「オトポール事件」が発生。氷点下20度を下回る極寒の中で救助を求める難民に対し、日本の同盟国・ドイツとの関係を懸念する満州国は入国を拒否しようとしました。しかし、季一郎は人道的見地から、独自判断で約2千人のユダヤ人難民を助けました。南満州鉄道の総裁・松岡洋右と交渉し承認を得て、特別列車で難民をオトポールからハルビンまで輸送。この経路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後数年間で数千人から最大約2万人のユダヤ人難民が脱出しました。これは杉原千畝の「命のビザ」より2年早い出来事です。季一郎の行動は批判されたものの、関東軍参謀長・東條英機の判断で不問とされました。
その後、1939(昭和14)年、陸軍中将に昇進。1943(昭和18)年、北方軍司令官としてアリューシャン列島のアッツ島の戦いやキスカ島撤退作戦を指揮。1945(昭和20)年、第5方面軍司令官の季一郎は、終戦後も北海道占領を企むソ連軍に対し、樺太・北千島の防衛を指揮。北千島の占守島では激戦の末、敵の進撃を食い止めました。その後、ソ連軍の北海道上陸は実現することなく、朝鮮半島のような分断は回避されました。戦後、ソ連は季一郎を戦犯として引き渡すよう求めましたが、世界ユダヤ人会議によって阻止されたと伝えられています。
出典 : 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』
啓文社書房(2022年)
「歩兵第41連隊跡」碑
(福山市緑町 緑町公園内)
福山歩兵第41連隊長時代
写真提供 : 大田祐介氏(福山市議会議員)
福山歩兵第41連隊長時代(騎乗写真)
出典 : 『陸軍中将 樋口季一郎回想録』
啓文社書房(2022年)
《参考文献》
・『陸軍中将 樋口季一郎回想録』
樋口季一郎
啓文社書房 2022年
・『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍』
樋口隆一 編
勉誠出版 2020年
・『奇跡の将軍 樋口季一郎』
大田祐介
福山健康舍 2021年
・『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』
早坂隆
文藝春秋 2010年
・『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』
木内是壽
アジア文化社 2014年
《協力》
・ 啓文社書房
・樋口隆一氏(明治学院大学名誉教授)
・大田祐介氏(福山市議会議員)
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2025年9月号]