第17回 工楽 松右衛門(くらく まつえもん)[1743-1812]
《鞆の浦の「大波止」を改修した発明家》

第17回は、鞆の浦の「大波止」を改修した発明家 工楽 松右衛門(くらく まつえもん) [1743-1812] を取り上げました。
《江戸幕府から、「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」の姓を賜わる》
ぜひご一読ください。
江戸時代後期、鞆の浦の港湾整備事業を指揮したのは、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』に登場する、海運業者で発明家の工楽松右衛門です。
松右衛門は、1743(寛保3)年、播州高砂(現・兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の家に生まれ、15歳で兵庫津(現・兵庫県神戸市兵庫区)に出て船乗りになりました。北の海に何度も乗り出し、帆船の操縦の腕を磨きながら、数多くの航海経験を積みました。
松右衛門は、幼少の頃から工夫や発明の才があり、帆布が弱くて航海で苦労した経験から、1785(天明5)年、播州産の木綿糸を使った厚手で大幅な新型帆布を発明。従来の破れやすい帆に比べ、丈夫な「松右衛門帆」は瞬く間に全国に普及しました。
1792(寛政4)年、豪商・北風荘右衛門の援助を得て、御影屋の身代を譲り受け、兵庫津に店舗兼工房「御影屋松右衛門」を構えました。 1802(享和2)年、江戸幕府から択捉島の波止建設を命じられ、独自の築港技術で完成させると、この功績により、幕府から「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」の姓を賜わり、以後「工楽松右衛門」を名乗りました。1804(文化元)年、焚場を箱館に築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った箱館の土地を海運業者の高田屋嘉兵衛に譲りました。
江戸時代中期以降、福山藩では他港との船の受入れ競争が激化したため、鞆港の港湾機能強化が急務となっていました。築港技術者・松右衛門の名声を伝え聞いた福山藩主・阿部正精(阿部正弘の父)のたっての願いにより、1811(文化8)年、松右衛門は病の身でありながら、鞆港整備計画を立案。大波止の修理延長や湾内浚渫の工事を、松右衛門の指揮の下、弟子の水京屋卯兵衛と岡本屋清兵衛が施工、工事現場では松右衛門考案の船(大石を運ぶ「石釣船」や浚渫する「底まき船」など)が活躍しました。児島栄五郎によって作られていた大可島下から50間(約90m)の大波止の修理と延長工事を行い、長さは約80間(約147m)になりました。松右衛門は他に、明神波止の改修や福山城下入川護岸の石積み補強工事も行いました。松右衛門の業績は、同時代の儒学者・菅茶山の『鞆浦石塘記』にも記録されており、大波止の石組みは、今でもしっかり残っています。
松右衛門は自らの信念を次のように語っています。
『人として天下の益ならん事を計らず、碌碌として一生を過ごさんは禽獣にも劣るべし』
(人として世の中の役立つことをせず、ただ漠然と一生を送るのは鳥や獣にも劣る)
1812(文化9)年、郷里の高砂で死去。鞆港の港湾整備に尽力した松右衛門は、近世港湾土木事業の先駆者として高く評価されています。
工楽松右衛門像(高砂神社)
写真提供:高砂市
鞆の浦の「大波止」①
鞆の浦の「大波止」②
※江戸時代の港湾施設が5つ全て残っているのは全国でも鞆港だけです。
①船の出入りを誘導する灯台「常夜燈」
②階段状の荷揚げ設備「雁木」
③石造の防波堤「波止(場)」
④船底に付着した貝などを焼き払う「焚場」
⑤船の出入りを見張る「船番所」
※大波止築造の時期 本文では、1791(寛政3)年、児島栄五郎によって鞆の浦の大波止が築造されたという従来の寛政期築造説(『福山市史』)を採用しました。しかし、近年では、1811(文化8)年、工楽松右衛門によって大波止は改修ではなく新規に築造されたという文化期築造説(『工楽家文書調査報告書』)が唱えられています。寛政期の大波止築造については、見積書が残されているだけで、築造には至らなかったという見解です。
《参考文献》
・『近世海事の革新者 工楽松右衛門伝-公益に尽くした七〇年』
松田 裕之
冨山房インターナショナル 2022年
・『工楽松右衛門の謎とき』
NPO鞆まちづくり工房 2009年
・『工楽家文書調査報告書』
高砂市教育委員会 2019年
・『帆神 北前船を馳せた男・工楽松右衛門』
玉岡 かおる
新潮社 2021年
・『新装版 菜の花の沖(一) 〜(六) (文春文庫)』
司馬 遼太郎
文藝春秋 2000年
・『司馬遼太郎『菜の花の沖』と北前船〈増補版〉』
塩見 英治
風詠社 2022年
《協力》
・高砂市政策部 シティプロモーション室
・福山市経済環境局 文化振興課
・福山市鞆の浦歴史民俗資料館
・福山市鞆の浦歴史民俗資料館友の会
・福山観光コンベンション協会
・NPO鞆まちづくり工房
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2023年2月号]