歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第9回 吉田龍蔵(1874-1945)《 原因不明の風土病「片山病」と闘った医師 》 

第9回は、原因不明の風土病「片山病」と闘った医師 吉田龍蔵(よしだ りょうぞう) (1874-1945)を取り上げました。
《「片山病」の原因究明と撲滅に多大な貢献 》
ぜひご一読ください。

 皆さん、福山市北東部から岡山県井原市西部の高屋川流域にかけて、かつて多くの人々を苦しめた「片山病(日本住血吸虫症)」という風土病が存在したことをご存知でしょうか。1847年(弘化4年)、山手村(現・福山市山手町)の医師・藤井好直が川南村(現・福山市神辺町川南)片山地区に原因不明の病気が多発していると、文献『片山記』の中で初めて紹介、粟根村(現・福山市加茂町)の医師・窪田次郎が「片山病」と名づけました。片山病は、手足がやせ細り、皮ふは黄色く変色、お腹に水がたまって大きくふくれあがり、やがて動けなくなって死んでしまう、とても恐ろしい病気でした。この片山病の原因究明と撲滅に取り組んだのが、医師の吉田龍蔵です。
 1874年(明治7年)、龍蔵は鳥取県久米郡倉吉宿(現・倉吉市)で代々医者をしている家に生まれました。京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)を卒業し、病院勤務の後、1901年(明治34年)、深安郡中津原村新茶屋(現・福山市御幸町中津原)に吉田医院を開業しました。龍蔵は、片山病に苦しむ多くの患者を診て、原因を突き止め治療法を確立したいと考え、亡くなった患者の解剖を何度も行いました。当時は人体解剖に世間の偏見が強く、龍蔵は周囲から“腹切り医者”と悪口を言われ、外来患者は激減、窮地に陥りました。
 しかし、そのような逆境の中で、龍蔵は解剖した患者の内臓から寄生虫の卵を発見。1904年(明治37年)には、京都帝国大学(現・京都大学)医学部の藤浪鑑教授とともに患者の遺体を解剖、ついにヒトの体から世界で初めて片山病の原因となる新種の寄生虫「日本住血吸虫」を発見しました。
1907年(明治40年)には、龍蔵を中心に「地方病研究会」が発足。1909年(明治42年)、龍蔵は藤浪教授らとウシを用いた感染経路の実証実験を行い、それまで「経口感染」と考えられていた片山病が、驚くべきことに「経皮感染(皮ふから病原体が入ること)」であることを証明しました。
 そして、1913年(大正2年)、他の研究者によって日本住血吸虫の中間宿主として「ミヤイリガイ(カタヤマガイ)」が特定されました。こうして、日本住血吸虫の幼虫は、ミヤイリガイという小さな巻き貝の中で育ち、ヒトやウシなどの哺乳類の皮ふからその体内に侵入し、片山病を発症させることが分かりました。そこで、田んぼや用水路に石灰をまいたり、土の用水路をコンクリート製に変えたりと、次々にミヤイリガイ駆除策が講じられ、片山病患者は徐々に減っていきました。
 このような活動をする龍蔵に、昭和天皇は二度も直接ねぎらいのお言葉をかけられました。また、広島県からは衛生功労者として表彰されました。現在、吉田医院跡の前には龍蔵の功績を讃える石碑が建っています。
 広島県が記録を取り始めてから片山病が終息するまでの約70年間の患者数は延べ11,784人、死亡者数は415人で、最も多かった1920年(大正9年)には 2,150人もの片山病患者がいました。広島県内では、1968年(昭和43年)以降は新たな患者の発生はなく、中間宿主のミヤイリガイも1973年(昭和48年)を最後に発見されていません。龍蔵たち多くの先人の懸命な努力によって、片山病は完全に終息した病気となったのです。

片山病撲滅のポイント
①日本住血吸虫の発見
②経皮感染の証明
③中間宿主ミヤイリガイの特定と駆除

 


写真提供:園尾裕氏(元福山城博物館 学芸員)

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