歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第8回 本覚大師 益信(827-906) 《「国師中の大国師」と称された高僧 》

第8回は、「国師中の大国師」と称された高僧本覚大師 益信(ほんがくだいし やくしん)(827-906)を取り上げました。
《「十八大師」の一人で、平安仏教の発展に貢献》
ぜひご一読ください。
「大師」と言えば、真言宗の開祖「弘法大師空海」と天台宗の開祖「伝教大師最澄」が一般的に有名ですが、「大師」と呼ばれる非常に数少ない僧の中で代表的な大師は、この2人を含めて日本の歴史上わずか18人しかいません。この「十八大師」の中の一人が「本覚大師益信」です。
益信は、平安時代前期の真言宗の僧で、827年(天長4年)、備後国品治郡宮内(現・福山市新市町宮内)にある備後一宮吉備津神社裏参道辺りの正仁谷と呼ばれる小さな集落で生まれました。益信には後に京都の石清水八幡宮をつくった兄の行教がいます。
益信は、幼少の頃より独学に励み、その後成長した益信は、兄のいる奈良の大安寺で出家し、元興寺と薬師寺で学びましたが、学び足らず、空海の弟の真雅に弟子入りしました。しかし、真雅が亡くなったため、唐で学んだ宗叡の弟子になりましたが、宗叡も益信に真言密教の教えを授ける前に亡くなってしまいました。
887年(仁和3年)、先生を亡くした益信の仏の教えを求める熱き願いを聞き入れた真言宗の僧源仁により、益信は灌頂を受けました。
その後、891年(寛平3年)には東寺長者、894年(寛平6年)には東大寺別当、896年(寛平8年)には石清水八幡宮検校となり、益信は、学問、見識、人格ともに非常に優れた高僧として朝廷や世間の信仰を一身に集めました。
そのようなことから、899年(昌泰2年)、宇多上皇が出家して寛平法皇になる際には、益信が仏門に入る上皇に戒律を授けました。こうして益信は、寛平法皇の国師となり、やがて「国師中の大国師」といわれるようになりました。
900年(昌泰3年) には僧正になり、益信は真言宗の流派である「広沢流の祖」といわれ、真言密教界の第一人者として、平安仏教の発展に大いに貢献、906年(延喜6年)80歳で円城寺にて亡くなりました。
921年(延喜21年)、醍醐天皇から真言宗の開祖「空海」に「本覚大師」の諡号(おくり名)が贈られる予定でしたが、醍醐天皇が空海の著書からヒントを得て、空海には「仏法を世に広(弘)めた大師」として「弘法大師」の諡号を贈りました。益信死後400年を経た1308年(徳治3年)、後二条天皇から益信に、長年宙に浮いていた「本覚大師」の諡号と「大僧正」の位が贈られました。
1933年(昭和8年)には、益信の誕生地の近くに「本覚大師廟塔」がつくられ、益信死後1,100年以上経つ今も、信者の方々が廟塔(お墓)を訪ねて手を合わせたり、「本覚大師顕彰会」の顕彰法要が毎年3月に営まれたりして、益信を偲んでいます。郷土の誇り本覚大師益信を祀る廟塔を、皆さんも一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
※出家 僧となって仏道を修行すること
※真言密教 空海の開いた真言宗の教え
※灌頂 真言密教の正統な継承者となる最重要儀礼
※上皇 退位した天皇
※法皇 仏門に入った上皇
※国師 天皇(上皇・法皇)の先生 天皇の帰依を受けた高僧
※本覚 人間に本来備わっている仏のさとり
※諡号 僧の死後、生前の行ないを褒め称えておくる名
※顕彰 隠れた功績などを知らせること

写真提供 : 安養寺(本覚大師顕彰会事務局)

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