歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第7回 吉田 五郎(1900-1993) 《 キヤノン(旧・精機光学研究所)の創設者の一人 》

第7回は、キヤノン(旧・精機光学研究所)の創設者の一人 吉田 五郎 (よしだ ごろう)(1900-1993) を取り上げました。
《初の国産高級35ミリカメラを作ろうとした男》
ぜひご一読ください。
 皆さん、大手精密機器メーカー「キヤノン(旧・精機光学研究所)」の創設者の一人が、福山出身の吉田五郎ということをご存知でしょうか。
 1900年(明治33年)、福山市の裕福な家に生まれた五郎は、小学生の頃からカメラを分解し組み立てるのが大好きなカメラ少年でした。1915年(大正4年)、福山中学校(現・福山誠之館高校)に入学しますが、1917年(大正6年)、学業半ばで退学し、上京。
 上京後、五郎は映写機や映画用撮影カメラの修理、改造の仕事をしました。仕事で中国・上海に行ったとき、あるアメリカ商人から、日本には素晴らしい軍艦や飛行機があるからカメラぐらい作れるだろうと言われ、五郎は国産高級35ミリカメラの製作を決意しました。
 1932年(昭和7年)には、ドイツのライカが高級35ミリカメラを発売、世界のカメラファンから熱狂的に支持されました。
 このような中、1933年(昭和8年)11月、五郎はライカに匹敵する高級カメラ作りを目指して、妹婿である義弟と、東京・六本木のアパートを借りて、「精機光学研究所(現・キヤノン)」を創設しました。
 1934年(昭和9年)、五郎は国産で初めての35ミリカメラの試作機「KWANON(カンノン)」を製作。カンノンという名には、観音さまの慈悲により世界最高のカメラを作りたいという、熱心な観音経信者である五郎の強い願いが込められていました。
 カメラ開発は五郎に任されていましたが、試作機はできても問題山積で、肝心の製品化の目処がなかなか立たず、そのため金を工面している義弟の苛立ちが徐々に募っていきました。仕事の進め方やカメラ作りの方向性の違いを痛感した五郎は、1934年(昭和9年)の秋、わずか1年足らずで研究所を去りました。
 五郎退所後の研究所は、1935年(昭和10年)、試作機KWANON(カンノン)に発音が似ている「CANON」「キヤノン」(英語で「聖典」「規範」「標準」という意味)を商標登録。そして、キヤノンの高級35ミリカメラ第一号機「ハンザキヤノン」を完成させ、1936年(昭和11年)に発売、本格的にカメラメーカーとして歩み始めました。五郎不在の中で初の国産化という五郎の夢が実現しました。
 研究所はその後、1937年(昭和12年) に精機光学工業株式会社として法人化。1969年(昭和44年) にキヤノン株式会社に社名を変更し、現在に至ります。初の国産高級35ミリカメラを作るという五郎の夢から、日本を代表する世界的な精密機器メーカー「キヤノン」が誕生したのです。
※「キヤノン」が正式な表記(小字を用いた「キャノン」は誤り)ですが、読み方は「きやのん」ではなく「きゃのん」です
※法人化/株式会社にして事業を引き継いで行くこと

写真提供 : キヤノン株式会社

 

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