歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第 3 回 河内 源一郎 (かわち げんいちろう)[1883-1948]

《「近代焼酎の父」「麹の神様」》

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第3回は、「近代焼酎の父」「麹の神様」  河内 源一郎 (かわち げんいちろう) [1883-1948]を取り上げました。
《日本の焼酎文化に革命を起こした「河内菌」の発見者》
ぜひご一読ください。
    
    麦や芋などを原料に造られる蒸留酒といえば焼酎ですが、焼酎が安心しておいしく飲めるのは、福山出身の河内源一郎が発見した「河内菌」のお陰なのです。
    源一郎は、1883(明治16)年、広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)で、父弥兵衛、母フミの長男として生まれました。家は代々、味噌・醤油醸造の「山田屋」を営んでおり、家業の影響で幼いころから麴菌などの微生物に興味を持っていました。
    広島県立福山中学校(現・福山誠之館高等学校)卒業後、大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科に進みました。卒業後は、家業が傾いたため、味噌・醤油屋は継がず、大蔵省の役人となり、税務監査局の技官として赴任した鹿児島で、生涯の研究対象となる「焼酎」と出合いました。  
    当時の焼酎は、とてもまずくて腐りやすい低品質なものでした。源一郎は、その原因が南国鹿児島の焼酎を造るのに、寒冷地向きの清酒用麹菌(黄麹菌)を使っているからではないかと思いつきました。鹿児島のような暑い地域で使う麹菌は、似たような気候の地域から探す必要があると考え、沖縄の酒「泡盛」に着目、泡盛の麹菌を取り寄せ、来る日も来る日も熱心に研究を続けました。  
    そして、1910(明治43)年、3年に及ぶ試行錯誤の末、泡盛の麹菌から焼酎に最も適した麹菌『泡盛黒麹菌』(アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ)を発見。焼酎の品質は飛躍的に向上し、源一郎は「麹の神様」と呼ばれました。この泡盛黒麹菌は焼酎業界で引っ張りだことなり、九州全土に広まりました。
    源一郎はさらに研究を続け、1924(大正13)年には泡盛黒麹菌の突然変異により生まれた新種『河内白麹菌(河内菌白麹)』(アスペルギルス・カワチ・キタハラ)を発見。泡盛黒麹菌よりもっと糖化能力の優れた河内白麹菌を使うことで、格段に優れた品質の焼酎が造れるようになりました。源一郎は、これを普及させるために大蔵省を辞めて、鹿児島市清水町に種麹屋「河内源一郎商店」を設立、研究と普及に尽力しました。
    1948(昭和23)年、源一郎は、自宅の玄関で倒れて急死しました。妻が着物の乱れを直そうと胸元に手をやると、源一郎は麹菌の入った試験管を懐に抱いていたそうです。戦後の物資不足の中、麹菌を純粋分離する装置がなかったため、自らの体温で麹菌を温め分離していたのです。まさに、「近代焼酎の父」と呼ばれるにふさわしい、研究一筋の生涯でした。
    現在、わが国で造られる焼酎のほとんどが「河内菌」を使用しています。お湯割りやロックに加え、近年ではハイボールでも親しまれる焼酎は、源一郎の発見によりその世界を大きく広げたといえます。
    

写真提供:株式会社河内源一郎商店
    

河内菌本舗の商品
    
    
※麹菌 アジアにしか生息していないカビの一種で、味噌、醤油、酒などの発酵食品の製造に使われています。
    
※「河内白麹菌(河内菌白麹)」が認められたのは発見からなんと23年後 1924年、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)西田幸太郎教授の協力により、発見した新種の「河内白麹菌」を「泡盛黒麹菌」の突然変異によって生じたものとして学会で発表しました。しかし、この大発見は当時のほとんどの学者たちに無視され、相手にされませんでした。1947年、河内白麹菌を研究していた京都大学教授・北原覚雄(きたはら かくお)博士は、新種であることを立証、学名を「アスペルギルス・カワチ・キタハラ」と命名し、その有用性を学会で発表。発見から23年後にようやく河内白麹菌が認められました。
    
※ プレミアム焼酎の代表格「3M」 プレミアム焼酎と呼ばれる希少な銘柄の代表格が、芋焼酎の『森伊蔵』『魔王』『村尾』です。頭文字から「3M」と呼ばれています。いずれも「河内菌」が使われています。
    
※マッコリ 朝鮮半島の醸造酒の一つで、日本のどぶろく(にごり酒)に相当。河内白麹菌(河内菌白麹)を発見した源一郎は、白麹の普及のために「河内源一郎商店」を開店しましたが、これまで自分が指導した黒麹を使う種麹屋の商売を邪魔しないよう、造った白麹を朝鮮や満州で販売しました。こうした経緯で、マッコリには発酵を促す麹菌に「河内菌」が使用されています。源一郎の河内菌がなければ、現在のマッコリは存在していないでしょう。
    
※グルタミン酸ソーダの精製 源一郎は、1940年に麦ぬかを用いた発酵法によりグルタミン酸ソーダを造る研究を始め、1948年3月、世界で初めて発酵法によるグルタミン酸ソーダの精製を完成させました。それを友人の鹿児島農林専門学校(現・鹿児島大学農学部)西田幸太郎教授に確認してもらった後、帰宅した源一郎は猛烈な胃痛に襲われました。胃の手術のため入院する予定だった3月31日に、容体が急変し心臓麻痺で急逝しました。グルタミン酸ソーダの精製、製法などは極秘扱いのため、その資料は現在も発見されておらず、晩年心血を注いだ技術が日の目を浴びることはありませんでした。
    
    
《参考文献》
・『麹の神様 河内源一郎』
  河内菌本舗ホームページより
    
・『河内源一郎物語』
  錦酒造ホームページより
    
・『誠之館人物誌 河内源一郎』
  福山誠之館同窓会ホームページより
    
・『麹のちから!』
  山元正博
  風雲舎 2012年
    
・『麹親子の発酵はすごい!』
  山元正博・山元文晴
  ポプラ社 2020年
    
    
《協力》
・河内源一郎商店
    
・福山市 文化観光振興部 文化振興課
    
・福山誠之館同窓会
    
    
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2021年10月号]