第21回 小林 躋造(こばやし せいぞう)[1877-1962]
《連合艦隊司令長官 台湾総督 海軍次官 海軍大将》

第21回は、連合艦隊司令長官 台湾総督 海軍次官 海軍大将 小林 躋造(こばやし せいぞう) [1877-1962]を取り上げました。
《太平洋戦争回避に尽力/東條英機首相退陣後の総理大臣候補》
ぜひご一読ください。
「連合艦隊司令長官」といえばハワイ真珠湾攻撃の山本五十六が有名ですが、その6年前の連合艦隊司令長官が小林躋造です。躋の字が臍に似ていることから、あだ名は「へそぞう(臍造)」。
躋造は 、1877(明治10)年、旧広島藩浅野家家臣・早川亀太郎の三男として、広島県広島市台屋町(現・南区京橋町)に生まれました。10歳の時に母方の小林時之助の養子となり、1890(明治23)年、尋常中学福山誠之館(現・福山誠之館高校)へ入学。3年生の時に教師2人の解任を阻止するため、集団で退学願を提出するという騒動が起こり、これを機に退学しました。その後、修道学校(現・修道高校)、そして海軍予備校を経て、海軍兵学校を優秀な成績で卒業。卒業後は、戦艦の乗組員として現場を体験。日露戦争中は、第二艦隊参謀等を歴任し、その後海軍大学校を首席で卒業しました。
1920(大正9)年、躋造は英国に駐在武官として赴任。翌年、躋造は海軍の要請を受け、英国空軍と交渉、航空教育団を招きました。これがウィリアム・フォーブス=センピル英国空軍大佐を団長とする「センピル教育団」で、18ヵ月にわたり霞ヶ浦海軍航空隊を教育しました。英国の新型航空機を使い、操縦や爆撃等の訓練が行われ、日本海軍の航空技術は飛躍的に向上、海軍航空戦力発展の基礎を築いた躋造の功績はとても大きなものでした。
英国から帰国後、海軍省軍務局長に就任した頃から軍縮条約遵守の考えを持つようになった躋造は、軍縮条約反対の「艦隊派」に対して、対英米協調の「条約派」の重要人物の一人と見なされるようになりました。
1929(昭和4)年、海軍艦政本部長に就任、翌年に補助艦の保有比率を定めたロンドン海軍軍縮条約が調印されました。艦船を計画・建造する艦政本部長の立場にもかかわらず、躋造は自らの信念に基づき軍縮条約締結に尽力しました。
1930(昭和5)年、海軍次官に就任し、将来の海軍大臣候補と目されました。次官在任中も艦隊派の勢いが強くなり苦労しました。
1931(昭和6)年、躋造は連合艦隊司令長官に就任。1933(昭和8)年、連合艦隊司令長官在任中に大将へ昇進。同年、天皇の諮問機関のメンバーである軍事参議官となりました。
1936(昭和11)年、二・二六事件のあおりを受け、予備役に編入されますが、半年後には台湾総督に任ぜられました。
1941(昭和16)年、日米戦争の可能性が高まる中、躋造は予備役大将たちと相談し、戦争回避に向けて山本五十六を海軍大臣にしようと動きましたが、この案は潰えました。太平洋戦争突入後も早期終戦の考えを持ち続けた躋造は、東條英機首相退陣後の総理大臣候補に名が挙がりました。また、大政翼賛会事務総長の丸山鶴吉(元警視総監・誠之館の後輩)からの要請により躋造は大政翼賛会中央協力会議議長に就き、誠之館出身の2人は協力し難局に当たりました。続いて小磯内閣の国務大臣等に就任するなど、大変困難な時代の国政を担いました。
出典 : 『海軍大将 小林躋造覚書』
山川出版社(1981年)
「センピル教育団」の練習機
小林躋造海軍大将の書(1935年)
※小林躋造は、東條英機首相退陣後の総理大臣候補として名が挙がりましたが、具体的には、小林躋造が総理大臣兼海軍大臣、真崎甚三郎が参謀総長、小畑敏四郎が陸軍大臣、吉田茂が外務大臣という陣容でした。
《参考文献》
・『小林躋造伝(植民地帝国人物叢書10台湾編10)』
宗代策 (谷ヶ城秀吉編)
ゆまに書房 2009年
・『連合艦隊司令長官 日本海軍実戦部隊の最高指揮官』
椎野八束編
新人物往来社 2003年
・『海軍大将 小林躋造覚書 (近代日本史料選書3)』
小林躋造 (伊藤隆・野村実編)
山川出版社 1981年
・『山本五十六再考』
野村實
中央公論社 1996年
・『細川日記(上・下)』
細川護貞
中央公論社 1979年
・『聯合艦隊「海軍の象徴」の実像』
木村 聡
中央公論新社 2022年
・『日本海軍史』
外山三郎
吉川弘文館 2013年
・『日本海軍と政治』
手嶋泰伸
講談社 2015年
・『海軍と日本』
池田清
中央公論社 1981年
《協力》
・山川出版社
・ゆまに書房
・福山市中央図書館
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2023年7・8月合併号]