第40回 佐藤 勇二(さとう ゆうじ)[1903-1977]
《自動車産業の国際化に貢献した「三菱自動車工業」初代社長》

第40回は、自動車産業の国際化に貢献した「三菱自動車工業」初代社長 佐藤 勇二(さとう ゆうじ)[1903-1977]を取り上げました。
《ビッグスリーの「クライスラー」と提携し、北米大陸に本格進出》
ぜひご一読ください。
世界的に有名な日本の自動車産業の海外進出に大きな足跡を残した佐藤勇二は、1903(明治36)年、現在の福山市(詳しい住所は不明)で、父・佐藤治郎三郎と母・君代の四男に生まれました。山口高等商業学校(現・山口大学)を経て、1928(昭和3)年、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後、三菱造船に勤務。1945(昭和20)年に、三菱重工業水島航空機製作所の業務部長に昇進。その後、水島機器製作所で三輪トラック『みずしま』事業の初代営業部長を務め、初めて自動車事業に関わりました。
戦後の財閥解体により、1950(昭和25)年、三菱財閥の中核企業であった「三菱重工業」は、「東日本重工業」「中日本重工業」「西日本重工業」の3社(「三菱三重工」と総称)に分割。勇二は、中日本重工業の経理部長に転じ、1957(昭和32)年には取締役に就任、その後も順調に出世の階段を登っていきました。
1964(昭和39)年、三菱三重工の再合併により、船舶、重機械、機械、航空機・特殊車両、自動車の5つを事業の柱とする新生「三菱重工業」が誕生、勇二は専務取締役に名を連ねました。三菱重工業社内における自動車事業の比重は年々増大。国内のみならず国際競争に耐え得る事業体質強化のため、1969(昭和44)年、「自動車事業本部」を設置、副社長の勇二は事業本部長に就きました。
「静」の人であった勇二は、「動」の牧田與一郎社長と二人三脚で、歴代社長の悲願であった自動車事業部門の分離独立を実現し、海外への本格的進出を図るため、奮闘。ビッグスリーといわれるアメリカの3大自動車会社(ゼネラルモーターズ・フォード・クライスラー)の一角「クライスラー」と提携について交渉、専業の自動車会社の発足を強力に推進しました。1970(昭和45)年、勇二はついに念願の「三菱自動車工業」を設立し、初代社長に就任。[同年、後に合併する「三菱自動車販売」社長も兼務]精力的に各地の工場やカーディーラー(自動車販売店)を回り、現場の意見を吸い上げました。
翌1971(昭和46)年には、この新会社にクライスラーが資本参加し、三菱重工業(85%)とクライスラー(15%)の2社を株主とする、資本金約352億円の自動車会社となりました。また、トヨタやニッサンに真っ向勝負するために開発した「コルトギャラン」を、クライスラーが高く評価。同年から「ダッジコルト」の名で北米仕様車を、クライスラーの販売網を使い、アメリカやカナダの西海岸地域から販売開始。この年、5万台強の車が日本から輸出されました。続いて、北米以外の各国市場へも販売を開始、ここに三菱自動車の海外市場への本格的進出が始まりました。
勇二は「殿様商売」と揶揄された三菱の古いイメージを打破。一部の反対を押し切ってクライスラーとの提携を成し遂げ、北米大陸への本格進出を皮切りに、三菱自動車のグローバル展開を積極的に推し進めました。
写真提供 : 三菱自動車工業株式会社
コルトギャラン
[米国に輸出した車と同型]
《参考文献》
・『三菱自動車工業株式会社史』
三菱自動車工業 総務部 社史編纂室
三菱自動車工業 1993年
・『海に陸に そして宇宙へ 続・三菱重工業社史 1964-1989』
三菱重工業 社史編さん委員会
三菱重工業 1990年
・『三菱自動車販売株式会社史』
三菱自動車工業 総務部 社史編纂室
三菱自動車工業 1986年
・『三菱自動車工業 三菱A型完成から100年』
当摩節夫
三樹書房 2020年
・『現代名士家系譜 第5巻』
現代名士家系譜刊行 1971年
・『人事興信録 第23版 上』
人事興信所. 1966年
・『広島県人』
村上正名
新人物往来社 1973年
・『ビジネスマン人国記 日本の一流経営者』
三鬼陽之助
講談社 1969年
・『三菱重工業の合併 誕生した巨大企業の全貌』
重化学工業通信社出版部 編
重化学工業通信社 1964年
《協力》
・三菱自動車工業
・三菱重工業
・福山三菱自動車販売
・福山市中央図書館
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2025年6月号]