第37回 箱田 良助(はこだ りょうすけ)[1790-1860]
《初の実測日本地図を作り上げた「伊能忠敬測量隊」隊員》

第37回は、初の実測日本地図を作り上げた「伊能忠敬測量隊」隊員 箱田 良助(はこだ りょうすけ)[1790-1860]を取り上げました。
《伊能忠敬の内弟子筆頭として「大日本沿海輿地全図(伊能図)」の完成に尽力》
ぜひご一読ください。
江戸時代後期、地理学者で測量家の伊能忠敬は、日本国中を徒歩で測量し、初めて実測による日本地図を作製しました。その忠敬の内弟子として活躍、後に旗本となったのが箱田良助(榎本圓兵衛)です。
1790(寛政2)年、良助は、備後国安那郡箱田村(現・広島県福山市神辺町箱田)の庄屋・細川(箱田)園右衛門の次男として生まれました。[細川氏は一時期、地名の箱田を名乗りました。]幼少の頃から優秀だった良助は、高名な儒学者・菅茶山の私塾「廉塾」で学び、和算(日本の数学)を得意としていました。
1806(文化3)年、伊能忠敬測量隊が、第5次測量のため福山城下に宿泊した際、良助は忠敬と面会。翌1807(文化4)年17歳で江戸に出て忠敬の内弟子となり、測量術や天文学を学びました。
1809(文化6)年、良助は第7次測量(九州第1次測量)から伊能忠敬測量隊(総勢18人)に参加、九州東南部の測量に向かう途中、神辺本陣に宿泊。菅茶山は忠敬を訪ねて漢詩を贈り、親交を深めました。また、九州からの帰途、忠敬一行は箱田村にある良助の実家に宿泊しました。
続く1811(文化8)年、良助ら伊能測量隊は、屋久島や種子島などの第8次測量(九州第2次測量)に出発。翌年、測量隊は九州へ向かう途中、再度神辺本陣に宿泊。忠敬は廉塾を訪れ、菅茶山に銅版の万国図を贈りました。1814(文化11)年、忠敬は菅茶山に宛てて、良助の測量活動の様子を記した手紙を出しています。
1815(文化12)年、伊豆七島の第9次測量は、忠敬が高齢のため良助ら弟子たちだけで実施。翌年、良助は内弟子筆頭として第10次測量を任され、江戸内の測量を行いました。
忠敬による日本地図作製のための測量は、1800(寛政12)年に始めた北海道の第1次測量から江戸の第10次測量まで、17年もの歳月を要しました。1818(文政元)年、忠敬は74歳で亡くなりましたが、忠敬の師・高橋至時の子で天文方筆頭の高橋景保[後に、伊能図などを国外に持ち出そうとしたシーボルト事件の主犯として獄死]が、忠敬に代わって地図作製を監督。忠敬に信頼され地図御用所(忠敬宅)の家政を任されていた良助は、他の弟子たちとともに作製作業を進め、1821(文政4)年「大日本沿海輿地全図(伊能図)」を完成させ、幕府に提出しました。
1822(文政5)年、良助は御家人・榎本家の婿養子となり、榎本圓兵衛武規と改名、武士になりました。翌年、幕府天文方出仕となり江戸城の暦局に勤務。その後、江戸城西の丸御徒目付に昇進。1844(弘化元)年に幕府勘定方となり、御家人から旗本に取り立てられました。
なお、榎本武揚は良助の次男で、オランダ留学後、幕府の海軍奉行となり、函館戦争(五稜郭の戦い)では明治新政府軍と戦いますが、降伏。投獄後、赦されて開拓使(北海道開拓のための官庁)に出仕、後に特命全権公使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結。文部大臣・外務大臣などの要職を歴任しました。
箱田良助の生誕地に建つ石碑
伊能図の一部
〈写真提供 : 香取市教育委員会 伊能忠敬記念館 〉