歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第36回 平櫛 田中(ひらくし でんちゅう)[1872-1979]

《「近代彫刻界の巨匠」 と称された、近代日本を代表する彫刻家》

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第36回は、「近代彫刻界の巨匠」 と称された、近代日本を代表する彫刻家   平櫛田中(ひらくし でんちゅう)[1872-1979]を取り上げました。
《代表作『鏡獅子』を井原市立平櫛田中美術館に見に行こう!》
ぜひご一読ください。
    
    近代彫刻の大家・平櫛田中(本名・平櫛倬太郎)は、1872(明治5)年、岡山県後月郡西江原村(現・井原市西江原町)で、父・田中謙造と母・以和の長男として生まれました。1882(明治15)年、広島県沼隈郡今津村(現・福山市今津町)の平櫛家の養子となり、後に二つの姓を組み合わせて「平櫛田中」と名乗りました。
    少年時代から向学心のあった田中は、大阪に出て丁稚奉公の合間に美術雑誌を読み、次第に彫刻に興味を持つようになりました。1893(明治26)年、人形師・中谷省古に弟子入りし、木彫の手ほどきを受ける傍ら、奈良に転居、仏像などを見て歩きました。上京翌年の1898(明治31)年、彫刻家・高村光雲を訪ね、奈良で制作した観音像の批評を求めるとともに光雲の弟子たちと交流し、西洋彫刻の技法等を一から学びました。
    その後、臨済宗の高僧・西山禾山と出会い、禾山に感化された田中は、禅をテーマとした精神性の高い作品を多く制作。また、美術界の指導者・岡倉天心が会長を務める日本彫刻会に参加し、天心の指導を受けました。天心は、禅の悟りへの道を“牛を探す老人”に例えた作品『尋牛』を高く評価しますが、その完成を見ることなくこの世を去りました。天心を深く尊敬していた田中は、通夜の席で天心の亡骸に、完成した『尋牛』を見せて号泣。後に天心をモデルに制作した『五浦釣人』は、JR福山駅南口にも設置され、待ち合わせ場所として人々に親しまれています。
    大正時代には、それまで人体の研究を疎かにしていた反省から、西洋式のモデルを使った塑造の勉強に寝食を忘れて打ち込み、『烏有先生』や『転生』などの優れた作品を生み出しました。昭和に入り、鶴岡八幡宮に奉納した『源頼朝像』で初めて「彩色」を使用。彫刻に色をつけるのは邪道と非難されましたが、田中は、古い時代の様式である「彩色」を積極的に取り入れ、多くの彩色像を制作しました。
    1936(昭和11)年、田中は、歌舞伎の名優・六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を彫ることを決意。人体の構造を把握するため、まず六代目の裸の像『鏡獅子試作裸形』を制作。次に、裸像に衣装をつけた『試作鏡獅子』を制作し評判となりました。その後、アジア太平洋戦争で制作を一時中断しましたが、1958(昭和33)年、22年の歳月を経て、代表作『鏡獅子』がついに完成。田中はこれを東京国立近代美術館に寄贈し、美術館から国立劇場に永久貸与されました。
    1962(昭和37)年、これまでの功績により、文化勲章を受章。田中は「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」が口癖で、100歳になっても30年分の木材を購入するなど、創作意欲は全く衰えず「六十 七十は鼻たれ小僧 男ざかりは 百から百から わしもこれからこれから」を実践、107歳で亡くなりました。
    この度、国立劇場の建て替えに伴い、『鏡獅子』が井原市立平櫛田中美術館に里帰りしています。この機会にぜひご鑑賞ください。
    
    

〈写真提供 : 井原市立平櫛田中美術館〉
    

JR福山駅南口に建つ
「五浦釣人(いづらちょうじん)」