第34回 本庄 重政(ほんじょう しげまさ)[1606-1676]
《「松永の開祖」 松永塩田の開拓者》

第34回は、「松永の開祖」 松永塩田の開拓者 本庄重政(ほんじょう しげまさ)[1606-1676]を取り上げました。
《「永く栄えるように(松寿永年)」と、造成した塩田地を『松永』と命名》
ぜひご一読ください。
1606 (慶長11)年、松永に塩田を造った土木事業家・本庄重政(本荘重政)は、尾張国(現・愛知県江南市)に生まれました。父の重紹は、佐々成政に仕えていましたが、後に水野勝成に仕え、1619(元和5)年、水野勝成の福山入封に従って大和郡山から移り住み、普請奉行として藩政を支えました。
長男の重政は、軍学の修行を志し家督を弟に譲り諸国を遍歴。島原の乱で原城本丸一番乗りの手柄を立てたことが認められ、1639(寛永16)年、備前岡山藩(現・岡山県岡山市)の池田家に召し抱えられました。しかし、待遇に不満を持っていたこともあり、1652(承応元)年、自分が考案した軍学(特に砲術)を世に伝えることを理由に、暇をもらう届けを岡山藩に提出して出奔、岡山藩から諸藩に奉公構(他家への奉公の禁止)が出され、浪人の道を歩むこととなりました。
岡山藩を出た重政は、「憐情」と号し、師と仰ぐ軍学者の山鹿素行を兵法師範に招いた、播磨国赤穂藩(現・兵庫県赤穂市)の浅野家に身を寄せ、この間「入浜式塩田」による最新の製塩技術を学びました。
1654(承応3)年、重政は、福山藩家老・上田直重(妻の兄)の進言により、福山に呼び戻されますが、岡山藩の奉公構のため仕官できず、10歳の長男を出仕させ、その後見人として登用されました。重政は、沼隈郡高須村(現・尾道市高須町)に居を構え、福山城下を往復して藩の子弟に軍学を教えました。
この頃、第2代藩主の水野勝俊は、領内の石高を上げるため、土木の名手とうたわれた神谷治部を起用し、干拓地の造成に力を注いでいました。重政は、城下へ行き帰りする度に目にしていた高須から柳津にかけて広がる遠浅の干潟が、かつて滞在した赤穂の塩田と重なって見え、この地は塩田として干拓すべきだと藩に提言。重政が学んだ軍学にある土木技術は、干拓地開発に役立ち、引退した神谷治部に代わり、1656(明暦2)年から1659(万治2)年にかけて、柳津・深津・高須に干拓地を完成させました。
重政は、1660(万治3)年より神村・柳津沖を塩田とする松永塩田の干拓に着手。1662(寛文2)年には堤防を築いて潮止め工事を行い、現在は本荘神社となっている地に住居を移して自ら工事を監督し、1667(寛文7)年、約8年の歳月をかけて入浜式の松永塩田を完成させました。東西15町(1.6km)、南北10町(1.1km)の新しく開発した塩田を中心とした集落を、重政は「松寿永年(永く栄えるように)」の意を込めて『松永』村と命名。ここに、1960(昭和35)年に塩田が廃止になるまで、約300年に及ぶ松永の基幹産業となる製塩業の基礎が築かれたのです。
1676(延宝4)年に亡くなった「松永の開祖」重政は、松永湾の干拓地を一望できる本庄家の菩提寺・承天寺に葬られました。干拓や新田・塩田開発、製塩業の発展に尽力した重政の功績は高く評価され、 1759(宝暦9)年には重政の遺徳を偲ぶ松永村の村民たちによって「本荘神社」が創建されました。
本庄重政木造(伝本庄重政作)
〈写真提供 : 承天寺〉
本荘神社
(福山市松永町5-41-17)
本庄重政の墓
(福山市松永町5-37-35 承天寺)
※入浜式塩田(いりはましきえんでん) 潮の干満差を利用して海水を自動的に塩田に導入する方法。遠浅の海浜を囲んで堤防を築き、その内側に塩田を造ります。 塩田の高さを干潮と満潮の中間位の高さにして、塩田の周りに浜溝(はまみぞ)を巡らせて、満潮時に海水を塩田に入れ、干潮時には雨水などを排水するという自然を利用した構造になっていました。
※神谷治部(かんや じぶ)[1600?-1662] 第2代藩主・水野勝俊の側近として活躍、水野勝俊時代の土木開発事業のほとんどを手がけ「土木の名手」といわれました。春日池や服部大池等の築造で知られています。
※奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ、ほうこうがまい、ほうこうがまえ) 安土桃山時代から江戸時代において、大名が家臣に対して科した刑罰で、旧主からの赦しを得ない限り将来の奉公が禁止されました。奉公構は、回覧板のように他大名に回され、召し抱えないように徹底していました。通常の追放刑であれば、他家への仕官もできますが、奉公構は将来に渡り仕官が禁止されたので、どこに行っても奉公構が出されたと知られると仕官ができませんでした。事実上、武士として生活が出来ないため、死刑宣告に等しい厳しい処分でした。奉公構を出された著名な人物として、水野勝成、後藤基次(後藤又兵衛)、塙直之(塙団右衛門)、平賀源内などが挙げられます。
※本荘神社(ほんじょうじんじゃ) 「松永の開祖」本庄(本荘)重政を祭神とする神社。1759(宝暦9)年に松永村の庄屋・村上久兵衛や岡本喜代八ら村民たちによって承天寺境内に社殿を建立して重政を祀り、本荘神社としました。その後、1831(天保2)年に重政の屋敷跡である承天寺の北の現在地に移されました。
※承天寺(しょうてんじ) 1658(万治元)年、本庄重政が、神島村にあった寺を本庄(本荘)家の菩提寺として福山城下に再興、寺院名を父の法名「勇儀院殿承天永護居土」から2字を取り「吸江山承天寺」としました。松永塩田の完工に伴い、 1668(寛文8)年、承天寺を福山城下から松永村に移しました。松永村に住む者は、宗派を問わず、全て承天寺の檀家としました。承天寺には重政の遺品が多く残されており、「本庄(荘)家文書」は福山市の重要文化財に指定されています。
《参考文献》
・『備後人物風土記』
村上正名
歴史図書社 1977年
・『福山散策』
村上正名
佐々木印刷 1976年
・『人間シリーズ クローズアップ 備陽史』
田口義之
福山商工会議所 2003年
・『福山市史 中』
福山市史編纂会 編
国書刊行会 1983年
・『シリーズ藩物語 福山藩』
八幡浩二
現代書館 2021年
《協力》
・福山市松永はきもの資料館
・福山市 文化観光振興部 文化振興課
・福山市中央図書館
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2024年11月号]