歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第12回 廣田 精一(ひろた せいいち)[1871-1931]

《東京電機大学と神戸大学工学部の創立者》

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第12回は、東京電機大学と神戸大学工学部の創立者 廣田 精一(ひろた せいいち) [1871-1931]
を取り上げました。
《日本で最初に自動車を運転した日本人/発明王エジソンと面会》
ぜひご一読ください。
    
    1871(明治4)年、備後福山藩(現・福山市)の勘定方を代々務める家に生まれた廣田精一(広田精一)は、教育者として3つの大きな業績を残しました。それは、現在の東京電機大学と神戸大学工学部の創設、そして出版社オーム社の設立です。
    精一は、1896(明治29)年、帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)を卒業後、兄・廣田理太郎(のちに高田商会 総支配人)が勤めていた大手機械商社・高田商会に入社し、同社在籍のままドイツのシーメンス・ハルスケ電気会社に入社。その後、欧米諸国を視察して帰国しました。
    1900(明治33)年、大正天皇が皇太子の折、ご成婚を祝ってアメリカ・サンフランシスコ在住の日本人たちが贈った電気自動車の整備を担当したのが、高田商会技師長の精一でした。この時、精一は日本の地で日本人として初めて自動車を運転しました。
    1907(明治40)年、精一は、欧米に立ち遅れた日本の工業を発展させるためには、電気技術者の育成が急務であると考え、東京帝国大学工科大学同窓生の扇本眞吉と、夜間に授業を行う電機学校(現・東京電機大学)を東京・神田に創設しました。
    1914(大正3)年には、電気工学の専門雑誌「OHM(オーム)」が創刊され、これを機に精一はオーム社を設立。それまで日本中の若き電気技術者は情報を得る手段が限られていたため、専門雑誌の発行を通して最新の技術情報を提供しようとしました。オーム社の社名は、有名な「オームの法則」とともに、電機学校の扇本眞吉校長(O)、廣田精一理事(H)、丸山莠三教頭(M)、この3人の頭文字からとったといわれています。
    さらに、1921(大正10)年には神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)の設立委員として同校の創設に携わり、初代校長に就任。全国から優秀な教官を集め、徹底した個別指導により落第者ゼロを目指す「無試験・無落第主義」を実践しました。また、「規律」「持続」「執着(のちに執守)」の3つの徳を校風として掲げ、学生の意気高揚と世界的な視野を持つことを奨励し、学校発展の礎を築きました。精一は、電気自動車の研究開発にも力を注ぎ、同校は1926(大正15)年、時速38km、1回の充電で走行距離83km、車体重量2トンの電気自動車を完成させました。余談ですが、同校の設立委員3人の内2人が福山の出身で、もう1人の設立委員は、「関西近代建築の父」とも「関西建築界の父」ともいわれる建築家の武田五一です。
    1927(昭和2)年、80歳になるアメリカの発明王トーマス・エジソンと面会。精一は、念願のエジソンと会って、胸が一杯になり思うことが言えず、多忙なエジソンを気遣い、5分という非常に短い時間で引き上げました。後で、ラジオや電気自動車の将来についてしっかり尋ねておけばよかったと、とても後悔しました。
    
精一は、亡くなる直前に自身の生涯を振り返り、和歌を詠んでいます。
「幸多く われ生まれたり なすことの 皆面白う 一生をおわる」
精一は、教育者として非常に大きな業績を残し、とても充実した人生を終えました。
    
    

写真提供 : 神戸大学
    

神戸高等工業学校の電気自動車
(写真提供:神戸大学)
    

廣田精一の胸像
(写真提供:神戸大学)
    
    
※電気自動車とガソリン自動車 電気自動車は、現在主流のガソリン自動車より約50年も早く作られ、蒸気自動車の代わりとして、当初は有望視されていました。1899(明治32)年には電気自動車が自動車として初めて時速100kmの壁を打ち破りましたが、重い蓄電池の搭載や一充電走行距離が短いなどの欠点により、やがてガソリン自動車に駆逐されていきました。
    
※日本で最初の自動車走行 1898(明治31)年,日本で初めて自動車を走行させたのはフランス人技師でした。それから2年後の1900(明治33)、日本人として初めて自動車を国内で走行させたのが精一です。
    
※日本で最初の交通事故 1900(明治33)年、精一が日本国内で日本人として初めて自動車を運転した翌日、紀伊国坂(三宅坂という説もある)で試運転中に、ブレーキが効かず急ハンドルを切ったためコントロールを失い濠(ほり)に落ちたのが日本で最初の交通事故です。この時の運転手は精一ではなく、優秀な汽車の機関士だったそうです。
    
※精一の兄・廣田理太郎とその親族
精一の兄は、高田商会総支配人で工学者の廣田理太郎。
妻は、政治家で著述家の鶴見祐輔の姉。
長女は、婦人解放運動家の加藤シヅエ。
次女の夫は、外交官の市河彦太郎。
姪に、社会学者の鶴見和子。
甥に、哲学者の鶴見俊輔。
孫に、コーディネーターの加藤タキ。
    
    
《参考文献》
・『神戸大学百年史 通史Ⅰ』
  神戸大学百年史編集委員会 2002年
    
・『神戸大学最前線 -研究・教育・産学官民連携-』4号
  神戸大学 2005年
    
・『自動車伝来物語』
  中部博
  集英社 1992年
    
    
《協力》
・神戸大学
    
・東京電機大学
    
    
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2022年9月号]