歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第18回 関藤 藤陰(せきとう とういん)[1807-1876]

《幕末の和平交渉で福山を戦火から救った儒学者》

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第18回は、幕末の和平交渉で福山を戦火から救った儒学者 関藤 藤陰(せきとう とういん) [1807-1876]を取り上げました。
《老中首座・阿部正弘の側用人として活躍》
ぜひご一読ください。
    
    江戸幕府老中首座・阿部正弘の側用人として幕政に関与し、戊辰戦争で福山を戦火から救うなど、幕末から明治にかけて大活躍したのが儒学者の関藤藤陰(石川和介)です。
    1807(文化4)年、藤陰は備中国小田郡吉浜村(現・岡山県笠岡市吉浜)の神官・関藤政信の子として生まれました。生まれてすぐに両親が亡くなり、6歳の時に医師・石川順介の養子となりました。養父は藤陰の優れた素質を見抜き、学問を学ばせました。1828(文政11)年、京都の儒学者・頼山陽の弟子となり、山陽の死後、託された校正途中の歴史書『日本政記』を完成させ、その後は江戸に行き勉学を続けました。
    1843(天保14)年、帰郷していた藤陰は福山藩の儒官になり、藩主・阿部正弘の老中就任に伴い、翌年江戸に呼び出され、正弘を補佐する君側御用係(側用人)に任命されました。藤陰は、水戸藩主・徳川斉昭の幽閉解除の運動を行い、ペリーの黒船来航の際には浦賀や下田を探索、黒船船内を調査しました。また、藩校誠之館の創立に関わり、蝦夷地(北海道)や樺太、択捉島の調査など、文字通り正弘の手足となって働きました。
    正弘の死後、福山に戻ると藩校誠之館の運営と藩主・阿部正教の教育に当たりますが、正教が23歳で急死したため、弟の阿部正方が14歳で跡を継ぎ、藤陰は君側御用係となりました。その後、福山藩は第二次長州征討にも参戦しますが、長州藩との戦闘に敗れました。
    子供のいない正方が20歳で病死して間もない1868(慶応4)年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の火ぶたが切られました。初戦で勝利した新政府軍の次の標的が、幕府西国の防衛拠点である福山藩とされたため、福山藩は戦いの前に、正方の棺を城の北にある小丸山の藪の中に仮埋葬し、藩主の死を隠して戦いに臨みました。1月9日、前年末から尾道にいた2,000名もの長州藩の軍勢が福山城に向かって押し寄せて来たため、城下は大騒ぎとなりました。藩士は直ちに城内に参集し防備を固め、町民たちは慌てふためき郊外に避難しました。長州軍が撃った大砲の砲弾が福山城天守西側の窓格子に命中、城内の銃撃隊が応戦しました。そうした中、藤陰は重臣たちと協議し藩の意見を新政府支持でまとめると、重臣の三浦義建と共に藩を代表して長州軍参謀・杉孫七郎との交渉に臨みました。孫七郎は藤陰の誠実な人柄と道理にかなった正しい意見に動かされ、直ちに停戦に合意。その後福山城に入城し、福山藩の重臣たちと会い、停戦を再確認。長州藩側は、福山藩主不在の事実を初めて知り、対応を協議。新政府軍に参加していた広島藩の藩主・浅野長勲の弟・正桓を次期福山藩主として迎え入れることを条件に、福山藩は新政府側につくことが許されました。こうして藤陰の優れた交渉力によって、福山は戦禍に巻き込まれることなく幕末最大のピンチを脱することができ、後の江戸城無血開城の手本となりました。 
    幕末動乱期の福山藩を支えた藤陰は、廃藩置県後東京に移住、正桓の相談役を務め、1876 (明治9)年、70歳で亡くなりました。墓は主君・正弘と同じ谷中霊園にあります。
    

写真提供:児島書店
    

「藤陰関藤先生碑」(福山市三吉町)
    

関藤藤陰の書
    
    
※尾道駐屯の長州藩兵数 1,300人説と2,000人説があり、ここでは2,000人説を採用。
出典 : 保谷徹著『戦争の日本史18 戊辰戦争』(吉川弘文館 2007年)
    
※藤陰の別名 「藤陰」は号で、藤陰には「石川和介」等、複数の名があります。藤陰は、1807(文化4)年に神官・関藤政信の第4子として生まれ、「関藤元五郎」と呼ばれました。1812(文化9)年、6歳の時に医師・石川順介の養子となり、「石川元五郎」を名乗ります。藤陰は、1868(明治元)年に関藤姓に復するまで石川姓を名乗っていたため、「石川元五郎」」「石川淵蔵」「石川和介(和助)」「石川文兵衛」と呼ばれていました。ただし、頼山陽の塾に入門していた頃は「関五郎」を一時期名乗りました。1868(明治元)年に、関藤姓に復してからは「関藤文兵衛」を名乗りました。
    
※ 藤陰の兄・関鳧翁(せき ふおう)[1786-1861] 笠岡が生んだ偉大な歌人・国語学者。本姓を関藤、名を政方(まさみち)。還暦の頃から鴨の羽毛入りの服を着用し、以後、「鳧翁」と名乗る。歌集『安左豆久比』『嘉平田舎詠草』、菅原神社奉納『梅歌千首集録』(笠岡市重要文化財)等。
    
    
《参考文献》
・『関藤藤陰 伝記と遺稿』
  志水主計
  児島書店 1977年
    
・『笠岡市史 第二巻』
  笠岡市史編さん室
  笠岡市 1989年
    
・『心にのこる笠岡のひと』
  笠岡市文化連盟 2002年
    
・『関藤藤陰十大功績』
  岡田逸一
  関藤藤陰遺徳顕彰会 1974年
    
・『敗れざる幕末』
  見延典子
  徳間書店 2012年
    
・『茅原の瓜―小説 関藤藤陰伝・青年時代』
  栗谷川 虹
  作品社 2004年
    
・『四方の波―小説 関藤藤陰伝・壮年時代』
  栗谷川 虹
  作品社 2008年
    
・『水上の杯―小説 関藤藤陰伝・老年時代』
  栗谷川 虹
  作品社 2012年
    
・『戊辰戦争 (戦争の日本史 18)』
  保谷 徹
        吉川弘文館 2007年
    
・『戊辰戦争年表帖』
  ‎ユニプラン編集部
        ユニプラン 2013年
    
《協力》
・児島書店
    
・笠岡市教育委員会 生涯学習課
    
・福山市 文化観光振興部 文化振興課
    
    
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2023年3・4月合併号]