第20回 宮原 直倁(みやはら なおゆき)[1702-1776]
《「備後郷土史家の鼻祖」》

第20回は、「備後郷土史家の鼻祖」 宮原 直倁(みやはら なおゆき) [1702-1776]を取り上げました。
《最古の備後郷土史『備陽六郡志』を書き著した福山藩士》
ぜひご一読ください。
福山の郷土史研究に欠かすことのできない最古の備後郷土史『備陽六郡志』は、福山藩の下級武士・宮原直倁(通称 宮原八郎左衛門)によって書き著されました。
直倁は、1702(元禄15)年、下野国宇都宮(現・栃木県宇都宮市)藩主阿部正邦の家臣の子として宇都宮で生まれ、正邦の福山藩への転封に伴い福山に来ました。幼少期から才能豊かで算術に秀でていた直倁は、川口村の庄屋・文右衛門の家に出入りしている時、田畑を検分して年貢を決める検見を手伝い、たちまち検見に詳しくなりました。
直倁が福山藩に勤めて8年後の1732(享保17)年、全国各地でイナゴが大発生し田畑に大きな被害が出ました。福山藩でも検見を行うことになり、直倁は勘定頭と同僚の勘定方と共に、 沼隈、品治二郡のうち7ヶ村の検見を命ぜられました。ところが、直倁以外は検見に不慣れで一向にはかどらず、村人たちは直倁を頼りに作業を進めました。仕事ができ村人の信頼を集める直倁を妬んだ同僚は、ありもしない悪口を上役の耳に入れ、それを信じた上役は直倁に小言を言うようになりました。そのうち村方の帳面も扱わせてもらえなくなり、出張も命じられなくなりました。その後も嫌がらせを受ける中、周囲からは本来の職務を願い出るようにと強く勧められましたが、直倁はそれを恥ずかしいこととして願い出なかったため、結果的に閑職にまわされてしまいました。1739(元文4)年、直倁38歳の時でした。
直倁が川口村の庄屋・文右衛門の家に出入りしていた頃、かつて福山藩主水野家の家臣であった上月加兵衛と知り合いました。加兵衛は、水野家断絶のため浪人となり貧しい生活を送っていましたが、問題があり手討ちにした亡き息子と直倁が同い年であることから、直倁を息子のように思い、親交を深めていきました。ある時、加兵衛から上月家伝来の貴重な古文書を、伝える子もいないからと託された直倁は、これを活かし加兵衛の志に報いたいという思いから、備陽六郡志の編纂を決意しました。
備陽六郡志は、藩の文書記録等は一切使用せず、上月家文書を第一資料とし、これに自ら収集した資料と長老たちから聞いたことなどを加えて編纂した、備後福山藩領の深津郡、安那郡、芦田郡、品治郡、沼隈郡、および分郡の六郡に関する郷土史で、原本は冊子44巻から成ります。直倁 は38歳の1739(元文4)年頃から作業に着手し、1776(安永5)年75歳で亡くなるまで、実に36年以上もの長きにわたり独力で編纂しました。後に、この備陽六郡志は、馬屋原重帯の『西備名区』や菅茶山の『福山志料』の編纂に活用され、1928(昭和3)年、郷土史家・得能正通によって『備後叢書』に収録、出版されました。原本は福山市の重要文化財に指定され、一般財団法人義倉に所蔵されています。
一介の下級武士にすぎなかった直倁は、閑職に追いやられても挫けず、藩に頼らず自分の力で、備後地域で初めての郷土史編纂という大事業に果敢に挑戦し、生涯をかけこれを成し遂げました。
郷土史『備陽六郡志』の一部
写真提供: 藤井登美子氏(作家)
宮原直倁の墓と顕彰碑
(福山市寺町 浄土宗一心寺)
『備陽六郡志』原本を所蔵する義倉
義倉で展示中の『備陽六郡志』
※鼻祖 ある物事を最初に始めた人。元祖。始祖。
※福山市重要文化財 2000(平成12)年、福山市教育委員会が、義倉の所有する備陽六郡志44冊を、福山市重要文化財として指定。
※ 「備陽六郡志の著者 宮原直倁顕彰会」の発足 2016(平成28)年、宮原直倁が主人公の『草魂の賦』を著した歴史小説家・藤井登美子氏ら地元の文化人たちが中心となり、顕彰会を発足。当時無縁仏となっていた宮原直倁の墓を一心寺(福山市寺町)境内に移転し、毎年宮原直倁を偲ぶ「草魂忌(そうこんき)」を開催。
《参考文献》
・『備陽六郡志と宮原直倁』
「備陽六郡志」の著者 宮原直倁顕彰会 2022年
・『人物 広島史』
芸備地方史研究会
三国書院 1956年
・『草魂の賦 備陽六郡志物語』
藤井登美子
栄光ブックス 2016年
《協力》
・「備陽六郡志」の著者 宮原直倁顕彰会
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2023年6月号]