第28回 森下 博(もりした ひろし)[1869-1943]
《「日本の広告王」 森下仁丹創業者》

第28回は、「日本の広告王」 森下仁丹創業者 森下 博(もりした ひろし) [1869-1943]を取り上げました。
《『鞆の浦観光鯛網』を観光事業として発展させた「鞆の大恩人」》
ぜひご一読ください。
森下仁丹創業者の森下博は、1869(明治2)年、備後国沼隈郡鞆町(現・広島県福山市鞆町)に沼名前神社の宮司の子として生まれました。9歳で博は学校を辞め、備後宮内村(現・福山市新市町宮内)の煙草商で12歳まで見習奉公し、15歳で一人歩いて大阪へ出て心斎橋の高級洋品店で丁稚奉公を始めました。
9年間の奉公を終えた博は、1893(明治26)年、大阪市東区(現・中央区)淡路町に薬種商・森下南陽堂を創業。妻と従業員2人で漢方薬などを販売する店を始め、広告宣伝や自店で開発した製品の販売にも力を入れました。
博は台湾で服用されていた丸薬を見て、仁丹のアイディアがひらめき、薬学の権威に協力を求め、3年間の研究の末、仁丹の処方を完成。そして、富山で丸薬の製造方法を学び、表面を赤いベンガラ(後に銀箔)でコーティングし、粒の大きな赤い丸薬[※仁丹の変遷 赤大粒仁丹▶赤小粒仁丹▶銀粒仁丹]を製造。この丸薬を、儒教最高の徳目「仁」と、台湾で丸薬によく使用する「丹」の字を組み合わせ、『仁丹』とネーミング。大礼服姿の人物をトレードマークに、1905(明治38)年、16種類の生薬を配合した携帯・保存に適した家庭薬『仁丹』を発売しました。
仁丹の発売に先立ち、日本初の特売方式の採用や自動販売機の利用等を含む「仁丹規定書」と呼ばれる画期的な販売方法を策定。当時では見られなかった数多くの新手法を打ち出しました。また、売上の3分の1を宣伝費に投入、新聞全面広告を連日掲載し、街にはホーロー看板を多数取り付け、従業員に全国の薬店を巡らせ、店頭に突出し看板等を設置すると、「大礼服マーク」は薬店の目印になりました。さらに、鉄道沿線に野立看板を設置、大阪駅前や東京浅草、上野に大広告塔を建設し、名所となりました。その他、町名表示と仁丹広告を併せて掲示する電柱広告や飛行機・仁丹号でビラを配布する日本一周宣伝飛行で話題を集めるなど、宣伝により全国に広くその名を知られた仁丹は、発売2年で日本の家庭薬売上1位を達成。早くも海外に目を向け、世界各国で仁丹の商標を登録、海外進出に力を注ぎました。
「広告で少しでも世の中の役に立ちたい」と願う博は、格言やことわざを記した「金言広告」や一般常識を短文にまとめた「昭和の常識」広告のように、生活に役立つ言葉を仁丹広告に併記。こうした様々な工夫を加えたことが評価され、日本広告大賞を受賞、「日本の広告王」といわれました。
博は経営家族主義を貫き、昭和恐慌で会社が最大の苦境に追い込まれても決して社員を解雇せず、逆に大宣伝を展開して危機を克服。また、代理店や小売店との共存共栄を図りました。そして、ロングセラーを続ける仁丹にあやかり、1936(昭和11)年に『森下仁丹』と社名を変更しました。
博は、生まれ故郷鞆の浦の伝統漁法を再現した催し『鞆の浦観光鯛網』を観光事業に押し上げるとともに、鞆町に多額の寄付を行い、町民には仁丹製品等を無料配布するなど、「鞆の大恩人」と称えられました。
写真提供 : 森下仁丹
仁丹発売当時のパッケージ
(写真提供 : 森下仁丹)
仁丹自動販売機
(写真提供 : 森下仁丹)
東京浅草の大広告塔
(写真提供 : 森下仁丹)
仁丹号
(写真提供 : 森下仁丹)
「金言広告」
(写真提供 : 森下仁丹)
電柱広告
(写真提供 : 森下仁丹)
「昭和の常識」広告
(写真提供 : 森下仁丹)
※社名(店名)の変更 森下南陽堂[1893(明治26)年]▶森下博薬房[1905(明治38)年]▶森下博営業所[1922(大正11)年] ▶森下仁丹[1936(昭和11)年]
※「仁丹規定書」 1904(明治37)年の秋、博は仁丹の発売に先立ち、1ヶ月あまり北浜の日本ホテルにこもり、「仁丹規定書」と呼ばれる画期的な販売方法を練りあげました。主な内容は下記の通り。
①日本最初の「特売」方式の採用
②規定書を全国薬店へ郵送
③少数大代理店制の採用
④契約による代金先受制度
⑤長期分割手形の実施
⑥一頁広告の連続掲載
⑦全国薬店へ突出し屋根看板を掲示
⑧自動販売機の利用
※経営家族主義 博が名付け親となった社員の子供は340人にもなりました。
《参考文献》
・『森下仁丹80年史』
森下仁丹 1974年
・『鞆の大恩人 森下博 -広告王 仁丹の生涯-』
福山市鞆の浦歴史民俗資料館 2014年
《協力》
・森下仁丹
・福山市鞆の浦歴史民俗資料館
・檀上浩二氏
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2024年3・4月合併号]