第44回 竹鶴 威(たけつる たけし)[1924‑2014]
《日本のウイスキーを世界レベルに育て上げた立役者》
第44回は、日本のウイスキーを世界レベルに育て上げた立役者 竹鶴 威(たけつる たけし)[1924‑2014]を取り上げました。
《「日本のウイスキーの父」竹鶴政孝を支え、その遺志を受け継ぐ》
ぜひご一読ください。
ニッカウヰスキー元社長で第2代マスターブレンダーの竹鶴威は、1924(大正13)年、広島県福山市光南町で父・宮野牧太と母・延代の四男として生まれました。福山東尋常高等小学校を経て広島県立福山誠之館中学校(現・福山誠之館高等学校)を卒業後、広島工業専門学校(現・広島大学)発酵工学科に入学。翌年、母の弟でニッカウヰスキー創業者「マッサン」こと竹鶴政孝とリタ夫妻の養子となり、姓が宮野から竹鶴に変わりました。
専門学校卒業後は北海道に移り、1949(昭和24)年、北海道大学工学部応用化学科を卒業し、ニッカウヰスキーの前身・大日本果汁(略称:日果)に入社。威は、養父・政孝の下で発酵や蒸留、熟成の技術を学びました。1950年代には製造工程の改良や原酒の品質安定化に尽力するとともに、製造責任者としてニッカの事業拡大を支えました。
威が特に情熱を注いだのは、新たな原酒づくりでした。北海道・余市蒸溜所の原酒だけではブレンドに限界があると考え、1960年代後半から、異なる個性の原酒を生む地を全国で探しました。辿り着いたのは宮城県仙台市の広瀬川と新川、ふたつの清流に囲まれた川霧が立ちこめる緑豊かな峡谷。そこにはウイスキーづくりに欠かせない良質な水と、原酒の蒸留や貯蔵に適した自然環境がありました。最適地と確信した威は、政孝を伴い再訪。政孝が、余市の原酒を新川の水で割って飲んでみると、驚くほど華やかな香りが立ち上りました。当地に決定すると、威は建設委員長として様々な困難に直面しながらも、1969(昭和44)年、当時としては画期的なコンピュータ制御の「宮城峡蒸溜所」を完成させました。宮城峡の柔らかく華やかな香りの原酒は、余市の力強い味わいの原酒と対をなし、ニッカはブレンドの幅を一気に広げました。こうして威は、余市と宮城峡でつくられた原酒を中心にブレンドしたウイスキーを世に送り出しました。樽出しの力強さと複雑な香味を閉じ込めた『フロム・ザ・バレル』、そして自らの姓を冠した『竹鶴ピュアモルト』。どちらも今なお世界中で愛され続けています。
1979(昭和54)年に政孝が亡くなると、威は創業家の責任を背負い、社長として品質とブランドの独立性を守ることを最優先に取り組みました。2001(平成13)年には長期的な成長を目指し、親密な関係にあったアサヒビールグループの傘下に入りました。 同年、スコットランドの老舗ウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」が開催した品評会で『シングルカスク余市10年』が世界最高賞「ベスト・オブ・ザ・ベスト2001」を受賞。威の努力が世界の舞台で花開き、日本のウイスキーがスコッチ・ウイスキーの牙城を破った瞬間でした。
原酒づくりからブレンド、熟成管理まで、威が掲げた「品質第一」の哲学は国境を越えて評価され、以後、日本ウイスキーは世界的ブームへと発展しました。威は創業者の遺志を受け継ぎ、日本ウイスキーを世界レベルに押し上げ、ニッカの名を確固たるものにしました。

写真提供 : ニッカウヰスキー株式会社

『竹鶴ピュアモルト』
〈写真提供 : ニッカウヰスキー株式会社〉

宮城峡蒸溜所
〈写真提供 : ニッカウヰスキー株式会社〉

竹鶴政孝リタ夫妻
〈写真提供 : ニッカウヰスキー株式会社〉

『フロム・ザ・バレル』
〈写真提供 : ニッカウヰスキー株式会社〉

『シングルカスク余市10年』
〈写真提供 : ニッカウヰスキー株式会社〉
《参考文献》
・『父・マッサンの遺言』
竹鶴孝太郎・竹鶴威
KADOKAWA 2014年
・『ウイスキーと私』
竹鶴 政孝
NHK出版 2014年
・『マッサンとリタ、その人生 ~ニッカウヰスキー創始者・竹鶴政孝とその妻リタの物語』
宝島社 2015年
・『ウイスキーとダンディズム 祖父・竹鶴政孝の美意識と暮らし方 』
竹鶴 孝太郎
KADOKAWA 2014年
・『ウイスキー一筋に生きてきた男、竹鶴政孝。』
マガジンハウス 2014年
《協力》
・ アサヒグループホールディングス
[初出:FMふくやま月刊こども新聞2025年11月号]








