歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち

第35回 阿部 正直(あべ まさなお)[1891-1966]

《「雲の伯爵」と呼ばれた気象学者》

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第35回は、「雲の伯爵」と呼ばれた気象学者 阿部 正直(あべ まさなお)[1891-1966]を取り上げました。
《雲と気流の研究に映像技術を用いた先駆者》
ぜひご一読ください。
    
    1891(明治24)年、「雲の伯爵」として知られる気象学者の阿部正直は、福山藩最後の藩主だった父・阿部正桓と母・篤子の長男として東京で生まれました。正直は華族という非常に恵まれた環境から、カメラや映写機、蓄音機など、時代の先端をゆく高級な映像機器類に触れて育ち、初めて見た活動写真(明治・大正期における映画の呼称)や写真愛好家の父の影響で、写真や映像に強い関心を示すようになりました。そうした中、映像を生み出す仕組みに興味を持ち10代の頃から工作に熱中、カメラや空中写真撮影機、フィルムなども自作しました。
    学習院から第八高等学校(現・名古屋大学情報学部)に進学。在学中、父の死により阿部宗家当主となり「伯爵」の爵位を継ぎました。1922(大正11)年、東京帝国大学(現・東京大学)理学部実験物理学科を卒業。翌年、イギリス留学の後、欧米各地を旅行した際、正直はシチリア・エトナ山の上空に突然出現する白雲(地元では「風の伯爵夫人」と呼ぶ)の話を耳にしました。
    1925(大正14)年、正直は、わが国唯一の自然科学の総合研究所である理化学研究所の嘱託研究員となり、富士山周辺の山雲の観測を開始。山の周囲に現れる雲の形(雲形)は千差万別で、山が高ければ多様な雲形が出現、山の形が単純なほど気流も単純なので雲形も簡単な形を現します。こうしたことから「孤立した円錐形で日本一の高さを誇る富士山は、周囲の気流とそれらが生み出す雲との相関関係を調べる上で最適である」と考えた正直は、富士山を観測対象としました。1926(大正15)年のある日の明け方、エトナ山の「風の伯爵夫人」を思わせる奇妙な形の白雲が富士山の頂に佇むのを目撃。これを機に、映像技術を使って山雲の発生過程を解明できないかと、物理学者の寺澤寛一や寺田寅彦に相談。彼らの助言を受け、立体写真や立体映像などを用いた独創的な方法で雲研究を始めました。  
    1927(昭和2)年、静岡県御殿場市の高台に自費で「阿部雲気流研究所」を創設。その後、自宅の実験室で富士山の模型を使って風洞実験を行い、雲の発生過程の再現に成功しました。
    1937(昭和12)年、阿部雲気流研究所は中央気象台の委託観測所となり、「雲気流参考館」(後の「阿部雲気流博物館」)を附設しました。
    1939(昭和14)年には、「富士山の雲形分類」という論文で「雲形は目に見えない気流の状態を示す標識」と規定し、気流状態に応じて山雲を分類。富士山の山雲を気流状態により7類型に区分、さらにそれらの下位分類を提示しました。1941(昭和16)年から中央気象台に勤務、研究部長を経て中央気象台気象研究所長に就任しました。
    正直が残した膨大な研究資料や写真類、機材等は、東京大学総合研究博物館と御殿場市に寄贈されました。正直の映像技術を用いた雲と気流の先駆的な研究は、現在でも国内外から高い評価を受けています。
    
    

〈写真提供 : 福山誠之館同窓会〉
    

富士山にかかる笠雲(かさぐも)
〈写真提供 : 御殿場市教育委員会〉