第24回 宮 太柱(みや たいちゅう)[1827-1870]
《日本最古のマスク「福面」を考案した医師》

第24回は、日本最古のマスク「福面」を考案した医師 宮 太柱(みや たいちゅう) [1827-1870]を取り上げました。
《近代的鉱山病対策の先駆者/マスクと坑内送風機を発明》
ぜひご一読ください。
日本で最初にマスクを考案した医師・宮太柱(宮太沖)は、1827(文政10)年に備後国安那郡西中条村深水(現・福山市神辺町西中条深水)で、医師・宮太立の次男として生まれました。宮家は代々医者の家系で、父の太立は長崎でオランダ医学を学び、太柱は父から医学を教わりました。
1845(弘化2)年、福山藩主・阿部正弘が幕府の老中首座に就任すると、正弘の側用人で儒学者・関藤藤陰(太立の従兄弟)の推薦により、太立は正弘の侍医になりました。それに伴い、太立・太柱父子は江戸で医院を構えました。外科を得意とする太柱は父の仕事を手伝う傍ら、 私塾を開いて日本古来の学問である国学を教え、次第に尊王攘夷運動に身を投じるようになりました。そのため、父・太立は藩内の立場が悪くなり侍医を辞めて、父子ともに江戸から備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)に移り、医院を開業しました。
その頃、かつて日本最大の規模を誇った石見銀山も銀の産出量が大幅に減少。坑道がさらに地中深く掘り進められたことで、労働環境が悪化し、鉱山労働者特有の鉱山病「気絶」が大きな問題になっていました。気絶は、鉱石を採掘するときに出る石の粉(粉じん)や灯りの油煙を吸うことで生じる呼吸器の病気で、現在では「じん肺」と呼ばれています。気絶になると、息切れ・咳・痰が増え、進行すると肺の組織が壊され、呼吸困難を引き起こし、ついには死に至るとても恐ろしい病気でした。
そうした中、石見国大森(現・島根県大田市大森町)の代官・屋代増之助は、石見銀山の鉱山病対策を太柱に依頼しました。太柱は、1855(安政2)年から1858(安政5)年にかけて、 石見銀山で鉱山病の調査研究に取り組み『済生卑言』という報告書にまとめました。そこには鉱山病対策として、太立・太柱父子が発明した坑内送風機を使い、症状を緩和する効能がある薬草を煮た蒸気を通気管で坑内の奥深くまで送り込むとともに、太柱考案のマスクを坑内労働者に着用させたと書かれています。本来「覆面」と称するところを、縁起を担いで『福面』と名付けたマスクは、針金の枠に絹の布を縫い付けて、表面に柿渋を塗り、両端にひもを付けて耳に掛けるもので、梅肉の酸が福面ヘの粉じん付着を防ぎ、呼吸を楽にすることから、内側に梅肉を挟んで使用しました。
一方で、太柱は「大木主水」という別名を使い、尊王攘夷論者として活動していました。1869(明治2)年、京都で起きた明治政府参与・横井小楠の暗殺事件に関与。実行犯の協力者として罪に問われ、三宅島へ流罪となりました。島到着のわずか8日後、伝染病患者への献身的な治療が原因で自身も感染、43歳で亡くなりました。
今でもじん肺(気絶)を治す根本的な治療法がないことを考えると、坑内送風機の発明と設置、呼吸用保護具の福面の考案と着用など、近代的鉱山病対策の先駆者として大きな功績を残しました。また、太柱の行った鉱山病対策は現代の感染症予防の先駆けともいえるものでした。
【上】 福面之図(個人蔵)【下】 福面(複製)
写真提供:石見銀山資料館
宮太立(左)・太柱(右)父子の墓
(写真提供:橘高秀樹氏)
横井小楠
※「御鼻袋」という鼻マスク 1830年頃、公家が厠の臭いなどを避けるために使ったとされるのが、「御鼻袋」という悪臭防止の鼻マスクです。御鼻袋が日本最古のマスクとする見解もありますが、御鼻袋は鼻を覆っているだけで口は覆っておらず、現在のマスクのように口まで覆ったマスクとしては、「福面」が日本最古のマスクです。
※世界遺産 石見銀山 2007(平成19)年、環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことが特に評価され、「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産(文化遺産)に登録されました。
※石見銀山の銀産出量 最盛期の江戸時代初期には年間約10,000貫(約38トン)の銀産出量でしたが、幕末頃になると年間約100貫(約375㎏)に満たないところまで激減、最盛期の100分の1程度の規模にまで縮小しました。
※大森代官からの鉱山病対策依頼の経緯 太立・太柱父子は数年間にわたる苦労の末、1854(安政元)年に鉱山病防止策を編み出しました。しかしせっかく工夫して考え出した防止策を使う機会がなくて困っていたところ、翌1855(安政2)年、後月郡高屋村(現・岡山県井原市高屋町)に住む薬学の大家・中村耕雲から石見銀山を担当する石見国大森の代官・屋代増之助を紹介されました。これを契機に大森代官から鉱山病対策を依頼されました。
※ 太立・太柱父子の白墓 西中条村深水のかつて宮家の屋敷があった敷地内に宮家の墓があり、その中に墓石に文字も何も刻まれていない太立・太柱父子の墓があります。墓石に何も刻まれていない墓を「白墓(はくぼ)」と言いますが、太柱が罪人となったため、世間に遠慮して白墓になったものと思われます。なお、大木主水の墓は三宅島にあり、現在も大切に祀られています。
※宮太茂(みや たいも) 太柱の甥(妹の子)。藩校誠之館教授の寺地強平にオランダ医学を学んで医者になり、1887(明治20)年頃まで西中条村深水で医療に従事していました。その後東京に出て、学習院の校医を務め、皇太子時代の大正天皇の脈を診たと言われています。
《参考文献》
・『笠岡市史 第二巻』
笠岡市史編さん室 編
笠岡市 1989年
・『白墓の声 横井小楠暗殺事件の深層』
栗谷川虹
新人物往来社 2004年
・『世界を動かした日本の銀』
磯田道史 近藤誠一 伊藤謙 他
祥伝社 2023年
・『今よみがえる郷土の偉人たち』
子どもが科学に親しむ場を創る会(出版部会) 2022年
・『親子で学ぶ 世界遺産石見銀山』
宍道正年
山陰中央新報社 2019年
《協力》
・石見銀山資料館
・橘高秀樹氏
[初出/FMふくやま月刊こども新聞2023年11月号]